日記46. 父親が亡くなって

  先日、父親が亡くなった。享年81歳。
  何年も前から重病で入退院を繰り返していたので、心の準備はすっかり出来ていて、「来るべき時が来た」という冷静な感じで最後を見送った。
  病院で亡くなってから、遺体の帰宅、葬儀屋との話、お通夜、親戚の接待、葬式、斎場での火葬と、次々に降り湧く未知の出来事も、単純に興味深く観察したというのが事実だった。
  例えば、葬儀屋さんの話によると

 

  「葬儀のやり方は、その地方地方でぜんぜん違うもんですわ。ここ大阪市内と泉佐野あたりでも、かなり違います。そんなんで思うのは、最近あの『送り人』とかいう映画が賞を取ったことですわ。あの映画の作者は確か北海道の人でんな。つまり映画『送り人』は北海道式の送り方なんですわ。あの映画が有名なって、みんな、それを正しいことやと思て『映画とやり方違うやんけ』て、文句言われたらどないしょうかなって、メチャ心配ですねん」とのこと。

 

  ふーん。知らんかった。勉強になった。と思ったけれど、もっと印象的なのは、死者の表情が変化していくことだった。
  病院の霊安室で見た、父の死に顔は青白くて固そうで、何やら苦しげな強張った表情だった。でも、無言の帰宅をしてから、いつも寝ていたベッドに横たえ、一晩立つと、驚くべきことに

 

  その顔はうっすらとピンク色を取り戻し、穏やかな微笑をたたえていたのだ!

 

  「うわ! 昨日と顔が違う。死んでるはずやのに・・・ひぇぇぇ」
  ちびりかけながら絶句する僕に葬儀屋さんが説明してくれた。

 

  「わたしも25年この仕事してますけど、ホトケさんの表情が変化することは実際はよくあります。亡くなられてからすぐは死後硬直とかで表情もやっぱり硬いんですわ。霊安室は冷たいしね。ところが、お家に帰ってきたら温度も違うし、時間的に少し硬直が緩む頃でもあるんですわ。そんなわけでホトケさんの表情は、お家ではたいてい柔らかくなります。化学的なことはよう知りません。けど、実際にお父さんもお家に帰ってこれて安心してはるんとちゃいますか」

 

  なるほど。そしてその後には、父の遺体をお通夜のためにお寺の本堂に運んで安置したのだけど、家にいるときから比べると明らかに表情が硬くなり、寂しそうに見えた。温度や時間の変化によるものだろうけど、そんなこと知らなければ、遺体もマダマダ死者の心のカケラをはらんでいると思ってしまう。実際、父は入院中も「家に帰りたい」と、もらし続けていたし。

 

  実は昨夜というか、つまり初七日の朝方に夢を見た。
  父は俳句が上手であって、俳句のコンテストなどでもよく入選していた。父と母が出会ったのも療養所の俳句クラブだったらしい。
  そんな父が夢の中で僕と一緒に俳句を読もうとしていた。僕は、ナカナカ良い歌が浮かばず、しかも5・7・5で、マトめることが上手く出来ない。そんなわけで、「もう少し長い短歌で思いを語っても良いか?」と父にたずねたところで夢から覚めた。
  目を覚まして布団の中でしばらく、ぼんやりしていた時に歌が浮かんだ。父が聞いたら「下手くそ」と言うに違いないと思う。でも、初七日供養に詠みます。

 

  亡骸に心は無しとわかっても、斎場の別れ千の思い出を刺す

 

  おとうちゃん、ありがとう。


日記47. 落ち葉は植物のウンコである意味を考える

  以前にも「旅のコラム」で書いたことだけど、「仏様の教え」についていろいろと考えてみた。
  なんでもタイ仏教で「仏の教え」と「自然の法則」は同じ意味とされ、「ダルマ」という言葉で語られる。
  つまり仏教とは、仏様が自然の摂理を観察するうち、そこに人間が幸せに生きるべき方法を見つけ、それを万人にわかりやすい言葉で表したものなのだ。別の言い方をすれば、仏教とは相対性理論と同じく、大宇宙に元から存在する理論だともいえる。
  タイのお寺で瞑想の修行をしたときに、その「ダルマ」をお坊さんに具体的に解りやすく説明してもらった。それが「三枚の葉っぱ」の話だ。

 

  そのお坊さんは『今からあなたにダルマとは何かを教えてあげましょう』と言って、茂みに入り、葉っぱを三枚拾ってきた。一枚は生き生きとした緑の葉っぱ。そしてもう一枚は黄色い葉。最後の一枚はカラカラに干からびた茶色の枯葉だった。
  お坊さんは言った。『あなたはこの三枚の葉っぱを見て何を思いますか?』
  僕は答えた。『若い人。中年。老人』
  『そうですね。そのように大自然の摂理はそれ自体が人生を表しているのです。つまり、自然の成り行きを敏感にうかがえば、人間がどのように生きるべきかも悟ることができるのです。それが仏の教えです』
  『なるほど』
  『もうひとつ付け加えると、この三枚の葉っぱはすべて死んでいるということが言えます。木から離れて養分を受け取ることが出来ないということは死を意味しますね。それを人間に例えるのなら、人は生まれた瞬間から死と言うものから逃れられない運命を背負っているとも言えます』

 

  そんな話を聞いてから、いろんな自然物を見るたび、それを人生に比喩することで何かの意味を見出すことが出来るような気がした。
  飛行機から雲を眺めていると、細かく小さな部分は風によってすぐにちぎれてバラバラになるけれど、大きな塊部分はナカナカ形が変わらない。つまり、大きな仕事や目標は早いスパンで変化しない。だからアセらずのんびり行こう。とか。
  池の蓮は、花を咲かせ、実を落とし、古い茎が腐り、養分をつくり、微生物や魚を生かし、池の生態系の輪廻を循環させた後、落とした実が新しい花を咲かせる。だから、僕たちが何げに生きて死んでいく影響の結果が次の世代の養分になるから、子供がいなくても生きていることは無意味なことじゃない。とか。

 

  そんなことを日々考えて生きているのだけど、先日ある本を読んでいたら、面白いことを知った。
  それによると「なぜ落ち葉ができるか?」という疑問に対し、「木は地中から養分を吸い上げ成長するが、養分の中には木にとって有害なものもある。そんな不要な元素を葉っぱに集め、切り落として地中に返すのが、落ち葉の意味。つまり落ち葉は植物にとって人間の排泄と同じ役目をしている。そして地に還った不要の元素は別の植物達の糧となる」ということだった。
  うーん。そんな話を「三枚の葉っぱ」になずらえて考えてみた。
  もし落ち葉が植物のウンコであるならば、それを人間や人生に例えるとどうなるのか。

 

  人間は生まれながらに死というものから逃れられず、ウンコのように醜く汚いものを内に秘め、やがて死んで肥やしとなっていく。でもそれは大事なことなんだ

 

  脚光や栄光を浴びている人でも実は汚物とあまり変わらない存在だけど、死んで地に還ればどんな人でも養分になって地球の生物を育てる糧となるということだろうか。
  カッコつけても所詮人間は糞レベルで大したもんじゃない。そしてはかなく死んでいく。でも、それは物質的に精神的に子孫や地球環境の助けになるのだから無意味なことじゃない。
  そんなようなことを「落ち葉は植物のウンコ説」から感じましたが、どうでしょう。


日記48. 人生は意外性が面白い

  最近よく考える。「意外性のあることが面白い」って。
  たとえば、どこかのバーに飲みに行ったとしよう。店の雰囲気もマズマズ。お酒の味もマズマズ。マスターのお話もマズマズ。値段もマズマズで、それはそれなりの楽しさでしかない。
  逆になんでもないバーで、酒もまずくてサービスも悪いけど、酔っ払った女性客が裸になってタコ踊りをやりだしたりしたら、きっとそこはとても面白いところに違いない。それは、意外性があるからだ。
  逆に「裸女のタコ踊りがいつも見れる店」なっていうのがあっても、それほど面白くないかもしれない。偶発的な意外性がないからだ。
  好きな音楽を聴いたとしても、「さあ。今から聴こう!」と、自分でCDをガチャガチャとセットして聴くよりは、ラジオから偶発的に自分の好きな曲が流れて来た時の方が感動するのと同じだ。
  他の例をあげると、たとえば頭がバーコードのウダツの上がらん風体をした小汚い親父が突然しびれるような優雅なギターを奏ではじめたら、おそらく、いかにもギターが上手そうな容姿の若者が弾くより胸に感じるサプライズは大きいはずである。
  例をあげればきりがない。上品そうな淑女とエッチしたら実は下品な性獣だったとか。めちゃめちゃイカツイ、ヤクザみたいなおっさんと喋ったら甲高いオカマ声でナヨナヨの屁タレだったとか。嫁だと思って冗談で後から首をしめたら全然知らない小太りのオバハンだったとか。
  とにかくそういうのはサプライズで面白出来事だ。それは意外性があるからに違いない。
  それは人生にも同じことが言える。

 

  つまり意外性のない人生なんて面白くない。

 

  僕は以前、公務員だったことがある。正確には徳島県の「県職員扱い」という立場である。安い給料だったけど、一生くいっぱぐれがないし、「骨を埋めよか」とマジ考えた。でも、そうなると10年後の自分20年後の自分がなんだか容易に想像できた。まあ人生細かいところではどこまで行っても意外性がつきまとうだろうけど、大きなスパンでの意外性がスポイルされてしまうことに面白みのなさを感じてしまい、けっきょく辞めた。
  以後、会社を点々としたり、海外を旅したり、バーをしたり。そんなことをすることによって当然、意外性が発生することも多くなり、面白い半生を送ってきたのは事実だと思う。
  ところが最近は、「結婚」や「自転車のチーム」や「自転車用品の販売」をする中で組織的に動かざるを得ないときもあって、ある意味の縛りを受け、ぶっ飛んだ行動をすることも次第に少なくなってきた。意外性のある人生を送ろうと思っていたのに! なんだか平平凡凡と生きているやないか~。
  でも、よくよく考えると「意外性のある面白い人生」を望んでいたのに、「穏やかに平凡に生きてる」って、実はそれ自体が「意外なこと!」じゃないのか!
  そんなわけで、人生の意外性を楽しんでまーす。


日記49. 連日とことん寝坊をして、早起きに転じる作戦

  僕は飲み屋をやっているので、仕事が終わるのは夜中の2時過ぎぐらいだ。家に帰ってウダウダしているとアッという間に朝になり、けっきょく床につくのは朝の5時とか6時ぐらいというのがごく普通である。
  この8月は日中の暑い時間をクーラーの効いた部屋でたっぷり寝る癖がついたので、起きる時間も寝る時間もどんどんと遅くなり、生活時間の逆転リズムが身についてしまった。最終的には朝の10時ぐらいにやっと眠たくなり、店がはじまる直前の夕方6時半に目を覚ますという夜行性動物状態だった。
  そうなると店を終わった後の朝5時とか6時ぐらいならマダマダ完全覚醒時間帯で、これっぽっちも眠たくない。で、近所を散歩などしてみた。
  うだるような暑さは成りを潜め、涼しい早朝の街を徘徊するのはけっこう面白いものだった。いかにも健全そうなジョギングおじさんやお散歩おばちゃんが「おはようございます」っと、笑顔の挨拶をしてくれる。向こうは僕のことを「早起き健全青年」と思っての笑顔なのだろうけど、実はぜんぜんそうじゃないのだ!

 

  「わて夜更かし、し過ぎてまだ寝れまへんねん。この後、家に帰ってウイスキーのボトル半分ぐらい空けたら10時ごろ寝れるかなあ」なんて言ったら、びっくりするだろうなあ。

 

  そんな不健全きわまりない究極夜更かしの末の早朝散歩なのだけど、挨拶を交わしたり、先祖の墓を参ったり、公園の野良猫の行動を観察していると、なんだかとても健全な気分になってしまうからおかしなものである。
  散歩だけじゃなく、早朝のテレビ番組も素敵である。夜中のしょーもない番組とは違って、「落語名人芸」とか「俳句教室」とか「短歌教室」なんて、興味深く文化的な番組が目白押しなのだ。
  ずっとこのままの生活パターンでも良かったのだけど、人間の体内時計リズムというのは奔放に暮らしていると、そう簡単にはペースを維持できないものである。
  僕の場合、店は夕方7時にはじまるのだけど、就寝の時間が昼の12時をまわるようになると、今度は夕方7時前に起きるのがツラくなってきた。

 

  なんでも人間というものは、寝たいだけ寝て、起きたいだけ起きていると、25時間サイクルで一日を過ごすようになるのだとか。

 

  何だか変な話である。人間の寝起きのサイクルが24時間ピッタリであれば、起床のツラサなんてないのにね。ひょっとして大昔の地球の自転は25時間だったとか・・・。
  とにかく僕は夕方7時にスッキリとした頭で店に出るため、ある秘策を練った。
  それは昼の12時過ぎ(つまり就寝の時間)になっても眠ることなく活動しつづけ、そのまま夕方には店に入り、がんばって仕事をこなし、夜中3時ぐらいにバタンキューと寝れば、次の日には午前中の10時とか11時ぐらいに起きれるのではないか!ということだ。

 

  つまり寝坊夜更かし生活をトコトンまで追い詰めて一周させてしまおうという計画である! 僕はそれによって「早起き青年」に戻れるに違いないのだ!

 

  結果的に言うとこれは大成功だった。寝ずに昼間を二回過ごすのは少ししんどかったけど、その後のバク睡を経た起床はメチャメチャ爽やかだった。まるでヨーロッパに旅行に行くと時差の関係で、あちらは早朝は日本の昼過ぎぐらいになるので、たっぷり睡眠をとって絶好調で一日を迎えるみたいだった。
  もちろんだんだん起きる時間は遅くなってくるので、不健全になったころあいを見て、また一周させようと企んでいる。
  何て言うのかなあ。

 

  「連日とことん寝坊をしてサイクルを一周させ、早起きに転じる作戦」

 

  メチャメチャ良いです。皆さんもおためしを。


日記50. 地球が太陽に焼かれる前にやるべきこと

  僕たちが生きている、たかだか50年だか100年の間のことを考えると、地球の環境なんてちょっとした気候変化があるくらいで、そんなに変わるもんじゃない。でも、太陽というのは年々巨大に膨張しているらしく、いつかは金星の公転軌道よりも大きくなると言う。つまり太陽も老年齢に達すると、アンタレスやベテルギウスみたいに赤色巨星になってしまうのだ。そうなると当然のことながら地球は熱い炎にさらされ、生物がいきていくことが不可能な星となるのだ。予測によると約5億年後には大きくなった太陽の影響で地球上のすべてが死滅するらしいのだ。考えたら、なんか絶望的で怖い気分になる。

 

  「そんな何億年も先の話を心配したってしょうがないやろ。どうせ俺らみんな死んでんねんから」

 

  なんて言われるのは解っている。でも僕たちが子供や孫や近い子孫のことを心配して危惧するなら、5億年後に太陽に焼かれる地球のことを心配するのも筋の通った話だと思う。
  僕はそんな話をよく酒を飲んで喋るのだけど、ネガティブな考えの人たちの意見によると

 

  「太陽が大きくなる以前にきっと人類は絶滅してるよ。だから5億年後のことを考えてもしかたない」とか

 

  「はあ。5億年後に太陽に焼かれるか。それはしょうがない。そこが人類の寿命なんだよ」とか

 

  だけど僕はそうは思わない。人間はそれほどバカじゃない。僕は、人類はすんでのところで絶滅を回避して、5億年後も存在しつづけると思う。そして、大きな宇宙船を開発して、太陽に焼かれる前に宇宙に飛び出し、新たに居住できる星を見つける旅に出るだろうと思うのだ。
  そう考えると、宇宙を流浪する宇宙船を作る為にたった5億年しか残されていないわけなんだから、しょーもない戦争なんかしてる暇があったら宇宙船のプラモデルでも作ってお祈りしている方が人類の為になるんじゃないのかと思う。

 

  そんなことを考えている今日この頃、面白いサイトに出会った。太陽に焼かれる地球を心配しているのは僕だけではなかったのだ。
  このサイトhttp://d.hatena.ne.jp/LM-7/20080330/1206878248によると、人類と地球を救う方法は2つあるらしい。
  ひとつは「地球軌道修正法」だ。
  地球に巨大なジェット噴射機をつけて、太陽が大きくなるのに応じて地球の軌道を外へズラし、最終的には木星の軌道近くにまで持っていけば、赤色巨星になった太陽に焼かれず、生物が住める温度と環境を維持できると言うのだ。
  なんともぶっ飛んだ話だ。
  もうひとつの方法は、もっとぶっ飛んでいる。
  巨大化した太陽をどこかへ捨てて、変わりにちょうどよい大きさの太陽に挿げ替えようという「太陽交換法」だ。
  なにやら太陽の移動には超伝導を使うらしいけど、ほんとにそんなことが出来るのか? なんでも、太陽を移動させて地球が別の太陽に近づいた時に乗り換えるというのだ。信じがたいお話である。
  でもまあ、1000年も前に人間が月に行くことなんて現実には考えられなかったことなんだから、今の僕たちの常識外のことだって起こり得るのかも、と寛容にも考えてみたい気もする。
  いずれにしても確実におこりうる「地球の消滅」を考えて、何か科学の発達に寄与するように考えながら生きていくべきなのではと思う今日この頃だ。
  友人の中には「毎日毎日意味も結末のないような同じような諸行を繰り返して生きていると『自分は何の為に。人間って何の為に生きてるねん?!』っとわけがわからなくなる」って言う奴もいる。

 

  僕はそんな奴には「5億年後に宇宙船を飛ばす為に俺らは生きてるんや。人類が無事に第二の地球を見つけれるためにがんばれや」

 

  といってあげるのだけど。
  まあその五億年後からさらに未来はどうなるかという観点から考えて「人間存在の意味は何やねん」と言われたら、悲しいかなちょっと答えられない。わからない。
  でも今は

 

  五億年後の地球脱出宇宙船をつくるため、僕はバーで酒をつくり、こんなコラムを書いているのだ

 

  って言ったら飛びすぎた話でちょっと変かなあ。