<シンガポールの思い出。「恋痛い」>〈26〉

  シンガポールは東南アジアの中では物価も高くて、麻薬の取り締まりも厳しいため?、僕にとってあまり面白いところではなかった。そんなわけでヒッピー系若者バックパッカ-も少なくて、ベンクーレン通りにある安宿街の食堂にはアラブ人やオッサン系の欧米人がたむろしていて、バンコクのカオサンロードとはぜんぜん違った雰囲気だった。
  ある夜ビールを飲みながら蒸し暑い空気の流れと沈黙を楽しんでいると、一人の白人のオッサンが僕に話し掛けてきた。
  「あんた。中国人かい?」
  「いや。日本人だけど」
  オッサンは薄い頭髪にメガネをかけた長身でイギリス人だといった。
  「じゃあ。この意味わかるかな?」
  そう言うとオッサンはイージーパンツの裾をたくし上げて自分の左の足首を僕に見せた。そこには幼稚なバンブー文字風の日本語で「恋痛い」とタトゥーが施されてあった。どう見てもいけ好かないオッサンがタトゥーをしていることに不思議を感じたけれど、欧米では人のいいシワシワのオバアチャンの肩にドラゴンが彫ってあることもあるから別に珍しい事じゃない。僕は単純に「Love is pain」だと答えた。するとオッサンは、ふむうう成る程なああと妙に感心したようだった。どうしたのか尋ねてみるとおっさんはこう言った。
  「いやね。数ヶ月前にこのタトゥーを彫ったんだけど、実は今日までこの意味を知らなかったのさ。オレ結婚してたんだ。愛していたんだ。ほんとに。でも離婚したのさ。オレの酒癖が悪いからだよ。離婚が決まった日、いたたまれなくて酒を飲んだ。ウイスキーのボトル2本ぐらい飲んだと思う。良く憶えてないけど誰かとケンカして血だらけになってそのままタトゥー屋に入ったんだ。タトゥー屋の親父に泣きながら離婚の話をして、なんでもいいからタトゥーを彫ってくれと頼んだのさ。それがこれさ。Love is painか、なるほどね。日本語で何て言うんだ。こいいたい・・・。コイいたい。ふーん」
  オッサンはなんだか吹っ切れたような顔をして僕にビールを一杯奢ってくれた。
  シンガポールで印象に残っているただ一つの出来事だ。