あの日、僕はスリランカにいた〈5〉

  3年前、アメリカ同時多発テロが起こったとき、僕はスリランカのアルガンベイという海辺の村でサーフィン三昧の生活をおくっていた。
  そこは、波乗りに適した美しい波の打ち寄せる人気(ひとけ)の無いビーチが100以上も点在するという、まさにサーフィンパラダイスで、僕は2ヶ月以上もその村の小さなゲストハウスにとどまり、日の出から昼まで波に乗り、昼から夕方まで昼寝をして、夜はひたすら星空を眺めるという優雅な暮らしをしていた。


  ある日、村はずれの小さな入り江のポイントでいつものようにボードにまたがりプカプカと海面に浮かんで波待ちをしていると、数日前から顔見知りになったイギリス人のニーチャンがミズスマシの様にスルスルとパドリングでやって来て、眉間にしわを寄せておもむろにこう言った。
  「おい。ニュース聞いたか?」
  波乗りをして星を眺めるだけの生活を送っていた僕は、同じ宿のイタリア人やオーストラリア人と雑談こそすれ、おおよそ社会情勢的な情報にはトコトン疎(うと)くなっていた。
  「ニュース? なんの?」
  沖のはるか遠い波を眺めて口を半開きにする僕が、その時耳にしたのは穏やかなスリランカの海と空の風景とは裏腹な、とんでもないことだった。


  「知らないのか。ホワイトハウスとペンタゴンとニューヨークの街中に飛行機が突っ込んで10万人死んだ。戦争がおこるよ」

 

  10万人死んだ? でも現実感が無かった。水面に魚が跳ね、その日もいい波がたくさん来て良いサーフィンができた。きらきら光る波のモザイクと入道雲は、あまりにもテロと無関係なことに見えた。

  宿に帰ると、ゲストハウスの食堂にたむろする欧米サーファーたちの話題はすでにアメリカ同時多発テロ一色になっていた。みんなが情報の断片をつなぎ合わせ、意見を交換していた。
  死者の数は10万人ではなくて、数千人だった。飛行機が突っ込んだのは、ホワイトハウスではなくて、ペンタゴンと国際貿易ビルだと知った。イスラム原理主義過激組織の犯行らしいということや、いずれにしても戦争に突入するのは避けられないということなど、世間から隔離されていたはずの僕はたちまちのうちに現実社会の一員として情報を植え付けられた。
  夕食のとき、いつもなら宇宙と旅とサーフィンの話以外はしないイタリア人のカルロもその日は違った。
  「まずいぜ。スリランカから国外に飛び立つ飛行機は全便欠航らしいし、インドから西行きの飛行機もすべて欠航らしい。もし本当に世界戦争が今起こったら、俺たちゃこの島から一生出ることが出来ないかもしれないってことだ。ここで暮らすって事は、おお! マンマミア! 大変だ。スリランカ語を勉強しなくちゃいけない。魚の釣り方も憶えなきゃいけない。網の繕い方や、木によじ登ってヤシの取り方まで一から勉強だ。まあだけどサーフィンができるからいいか」


  村にはいくつかの小さなホテルやゲストハウスがあって、総勢で約50人ほどの欧米からのサーファーたちが滞在していた。インターネットも利用できるところがあり、テロから数日後には世界大戦争がすぐには起こりえないという正確な情報によってみんなは落ち着きを取り戻していった。


 でも静かな海辺の村にも事件はおこった。

  スリランカは仏教国で、タイと同じように人々は仏様を拝むのだけど、北部の方は「タミール解放のトラ」と呼ばれる政府と対立するヒンズー教のひとびとの地域がある。それがいざこざの原因になって、たまにテロがあったりして、そもそもスリランカ国内の治安はあまりよくない。
  サーファーパラダイスのアルガンベイの地元民は、仏教徒とヒンズー教徒の他にイスラム教徒もいて、その人口比率は三分の一づつだという。普段は仲良くやっているはずの三つの宗教の人々なのだけれど、同時多発テロから4日後の夜から未明にかけて、ヒンズー教徒とイスラム教徒の若者総勢50名が血みどろの乱闘を繰り広げた。
  ヒンズー教徒の一人の若者が、テロを起こしたことについてイスラム教を激しく誹謗したことが原因だとは聞いたが、詳しいことはわからない。


  とにかく、家が一軒と船が数隻燃やされて、双方合わせて5名の重傷者が出た。その後小さな小競り合いも後を絶たず、村には殺伐とした空気が流れ出した。
  そうした雰囲気を危険と判断したのか、その2日後、村に滞在する外国人サーファーのうち35人ほどが一挙に首都コロンボへと脱出していった。

  村に残された外人サーファーは僕を含めて15人ほどの変わり者ばかりになった。陽気なイタリア人のカルロもいなくなって、溜まり場で賑やかだったゲストハウスの食堂もがらんとして空っ風が吹いているようだった。
  それでも僕は村のはずれにある小さな入り江で日の出からサーフィンをして、夜は星を見つめた。
  やがて、乱闘騒ぎはスッカリと落ち着いたけれど、サーファーもツーリストも少なくなって、波のサイズも日に日に小さくなって、村全体がうら悲しい静寂に包まれていた。そんなある日のこと、僕は絶望に彩られたある悲しい体験をした。

  僕が毎日サーフィンをした入り江へ行く途中にはイスラム教徒の村があった。イスラムの村人たちは人懐っこくて、老若男女が意味も無くいつも笑顔で手を振ってくれた。のんびりとした風景のその村はビンラディンとはまったく無関係の世界であるように感じた。
  子供たちは、サーフボードを抱えてテクテク歩く僕の後ろに付きまとって、憶え立ての英語で、「あなたの名前は何ですか?」とか「あなたは何歳ですか?」とか「ボールペンをください」だとか、無邪気で不躾な言葉を連発で浴びせてきた。最初のうちは、正直に名前を語り、年齢を答え、「ボールペンは持ってません。ごめんなさい」と返事をしていたのだけれど、毎日毎日来る日も来る日も同じ子供が同じ質問をしてくる。まあそれしか英語を知らないのだからしょうがないのだろうけど、いいかげんうんざりして半ば無視するようになってしまった。
  そんな時、はじめて見るお兄さんクラスの子供(中学生ぐらいか?)が、少しばかり流暢な英語で話し掛けてきたことがあった。


  「あなたはアメリカが攻撃されたことについてどう思いますか」


  おお。少しはまともな話をしてくれる子がいるやないかっと身を乗り出した。相手がイスラム教徒であることにも気を配りながら僕はこんな風に答えた記憶がある。


  「アメリカのテロの犯行はイスラム教徒の仕業だというけど、別にイスラム教徒だから悪いってわけじゃない。宗教は関係なくて、テロをすることが悪い。そういう風に考えて、僕たちは平和を創っていくべきだと思う」


  しかし、イスラム少年の口を突いて出てきた言葉は耳を疑うようなことだった。


  「僕たちはうれしい。アメリカが攻撃されたことがうれしい。僕たちはビンラディンを誇りに思っている。彼はすごい。グレートだ。アメリカを蹴散らした英雄だ。俺のとうちゃんもかあちゃんも村中のみんながビルディングが崩れるのをテレビで見て『イエーイ』って言ったよ」


  今自分の耳で聞いたことがにわかに現実のことだとは信じられなくって「狂ってる・・・」とつぶやいてその場を後にした。
  後から考え直してみてもぞっとした。
  テロはよくないことだというのは、僕らにとっては常識だ。でもそれは日本人と世界の中でも一部の人だけが抱いている非常にマイノリティーな思いなのではないかと思った。テロを根絶するためには、テロリストを退治するだけではすまされない。もっと根深いものがあると思った。
  宗教やその中での立場というものを世界平和より最優先事項として考える人々がいるという事実。だからイスラム教というくくりを大事にするがゆえに、同じイスラム教徒がした凶行を肯定するという理論。
  あたまの中身がぐちゃぐちゃになって、星の光だけで僕の心を洗い尽くすことが難しいと感じたその三日後。僕は二ヶ月過ごしたアルガンベイを後にした。
  それは、アメリカがアフガニスタンに狂気の空爆を開始する二週間前のことだった。
  とまあ、今回はやっぱり少し悲しげな内容でした。合掌…。