スポーツは宗教だ。チャンピオンは神様だ。でもお釈迦さんは言った。「神なんていない」と。

 

スポーツが宗教だとすると、坂田利夫も神様になる。
「スポーツは21世紀の宗教だ!」なんて言葉を聞いたことがある。確かに今の世の中、教会もお寺もお金儲けが上手で宗教的崇高さに欠けるよなあ。だいたいからしてイスラム国みたいに神の名を語って人を殺す集団もいるのにアラーの神は黙って奴らを見逃しているもんだから、神の存在を信じない人が増えていくのはしょうがない。でも人間って何かを信じて頼りたいって気持ちがある。だからスポーツを宗教になぞらえて信仰しようって意識が働くのだ。つまりスポーツに陶酔すること自体が信仰であり、チャンピオンを神として賞賛することが一つの祈りであるわけだ。
そんなわけで巷にはたくさんの「神様」がおられる。ペレはサッカーの神様だし、カール・ゴッチはプロレスの神様。自転車の世界でエディー・メルクスはまさに生き神様だし、マトリックスの安原監督を神とあがめる謎のグループの存在も語られている。他にも広瀬香美がロマンスの神様だとか(ふっる~)、最近の大阪のテレビCMでは坂田利夫ですら神様となって登場している。ちなみにタクリーノの近所には「西成の神様」という歌手までいる。ああ神様の価値も下がったもんや。

 

ツール・ド・フランスは多神教の宗教なのだ
それでも僕たちはスター選手を神と仰ぐ気持ちを持っている。たとえば、ツール・ド・フランスは総合優勝の他に山岳賞やスプリント賞や新人賞やら、ステージ優勝も入れると一回の開催でメチャたくさんの「神様」が降臨される。すなわちツールは多神教の宗教なのだ。でも、これはツールだけに限ったことじゃなく、すべてのスポーツに言えることだ。例えば、テニスだって4大大会があって、それだけで一年に4人の神様が誕生する。小さい大会まで入れるとそれは「八百万の神」だ。つまり現代スポーツと言う宗教の裏には多神教のマインドが流れているのだ。
まあ考えてみたら、ヨーロッパ人って今は一神教のキリスト教だけど、昔はギリシャの神々みたいな多神教を信じていた民族なんだよね。そんなわけでヨーロッパ人が創り上げた現代スポーツが構造的に多神教世界になっていることはナルホドなのだ。
ちなみに世界の宗教のほとんどは多神教で、一神教は特殊な存在であるらしい。なんでも、紀元前1200年頃に出現したユダヤ教が世界初の一神教で、その発生は革命的なことだと言うのも、同じ起源のキリスト教とイスラム教が世界宗教のマジョリティーを占めていることでもわかる。それにしても、兄弟ゲンカを止めれない神様ってどうなの?なんて思うけど・・・。
ただ、一神教の凄いところは、強烈なカリスマである、たった一人の神様への信奉心の濃度の濃さだ。たとえばダブルエースより、絶対的な一人のエースをアシストする方がモチベーションに曇りがないもんね。2014年のツールでチームスカイが調子の良かったウィギンスを外してでもフルームに単独エースを任せたところにキリスト教の影響が見えるなあ。

 

お釈迦さんは言いました。「神様なんかいるかどうかわからない」
さて話は変わって、仏教についてである。世間一般が意外と知らないことで「仏教はもともと宗教ではなく、哲学だった」という真実がある。お釈迦さんは2500年前に「神様なんているかどうかわからない。だから祈っても人は幸せにはなれない」と語っている。つまり、現在の日本に伝わる大乗仏教(祈れば幸せになると言う宗教)はお釈迦さんの説いた本来の仏教とは少し違う。お釈迦さんの本意は「人が幸せになる方法は自分の心をコントロールすること」なのだ。別の言い方をすれば「心頭滅却すれば火もまた涼し」ともなる。そんなわけで、この仏教的哲学マインドを通して自転車スポーツを見つめ直すと、これが意外や興味深い。
たとえば、レースで惨敗しても「3Kスポーツの選手はもう辞めや。これからキャバクラとパチンコの選手になる」なんて考えず、「この試練こそが自分を成長させてくれる」と思えば人生豊かになるに違いない。僕のようにおっさん選手になってズバズバと若い野郎に抜かれまくっても「くそガキャ。あとで体育館の裏でシバキまわしたろかい」などとは決して思わないで、「大地に新しい芽が出て、やがて巨木へと成長するのだ。ああ宇宙の輪廻の素晴らしいことよ」と思うと、アンドロメダとの交信も容易になるわけだ。そんな「スポーツ宗教論」を超越した「スポーツ仏教哲学論」ってエエ感じやろ。ヤケドしないように心頭滅却してねぇ。