日記1. <ギターは宇宙の言語?>

  僕はギターを弾く。弾き始めたのは遅くて35歳を越えてからだ。やっぱりFを押さえるのはいまだに難しいしけれど、好きな曲を伴奏しながら口ずさめるようになるのは、すこぶる気持ちいい。ポロポロとしたアコースティックな音色には心を癒してくれる何かがあると感じるけれど、それはどうやら人間に限ったことではないらしい。
  うちにはチビという半野良猫がいて、スッカリなついているのだけれど、僕がギターをポロポロ弾き出すと、近所をパトロール中でもそれを聞きつけて帰ってくる。部屋に侵入してくると、ギターを弾く僕の前に座り目を細めて音色に聞き入るのだ。それで、弾き終るとまたどこかへ出て行く。どうやらチビは、ギターの音が好きなのではないかと僕はにらんでいるのだが、どうだろう。
  ところで、和音を気持ち良いと感じるのは、それぞれの音の振動数の最小公倍数が同じであると言うことから由来しているらしい。つまり音楽を聴いて気持ち良いと思うのは、人間の感性の問題ではなく、物理的な現象であるとも言えるわけで、同じ物理法則の中で生きている猫が音楽を気持ちええと思うことは不思議でもなんでもない。
  そう考えると、地球外生命体の方々もきっと音楽を理解し、それを楽しむことができるのではないかと思う。宇宙人がやってきても、一定の音色が共通の感情を指し示すことがわかれば、言葉はいらない。それは僕がバックパッカ-してるときに、言葉の通じない国でもギターを一緒に弾けば友達になれたことと同じ事だろと思う。

 

  音楽は宇宙の言語だ!

 

  なんてね。でも、昔の映画で、クラッシック音楽を聴くと頭が爆発する火星人がいたなあ・・・。実際のところどうなんでしょ。


日記2. <ロードレースの美学とは?>

  僕のまわりの人たちというのは、決して自転車キチガイみたいな人ばかりじゃなくって、あくまでも自転車と無関係の普通の人も大変多い。
  最近レースに出場しはじめた。で、そんな報告などを、昼飯なんぞ食いながら知り合いで自転車レースというものを詳しく知らない人たちに話す機会がよくある。そうするとやっぱり聞かれるのは順位のことだ。
  僕としては逃げて、その結果つぶれて100位ぐらいになることがよくあるので、「そのレース何位だったの?」と聞かれると「100位だった」なんて言いづらくて、「中盤で大逃げかまして捕まった。でも自分としてはベストを尽くした最高のレースだった」なんていうと知り合いの人たちは一瞬ポカンとした後「それで順位はどうだったのか?」と再び激しく追及をかましてくる。
  それで「100位だったけど、積極的にレースを展開できてよかった」なんて答える。だけど彼らは「なんだ。さっぱりダメじゃん」みたいな顔をして、ぜんぜん理解してもらえなくて、少し悲しくなることがある。

 

  ロードレースには美学というものがあると思う。ただ勝つにしても、勝ち方にこだわるということ。ただ負けるにしても、負け方にこだわるということ。
  順位表だけ見れば、一位は一位としか書いていないけれど、そこにはいろんなドラマやいろんな勝ち方がある。一ミリも前を引かずにインターフェアぎりぎりの危険なゴールスプリントで勝ち得たきわどい一位もあれば、レースを支配するような果敢なアッタクの末の単独大逃げでグリコーゲンの全てを使い果たしたぶっちぎりの一位は当然内容が違うと思う。また同じ100位でも、疲労の恐怖に逃げ惑い集団の中で体力を温存しながらの完走ねらいの100位と、猛烈なアッタクの応酬で何度も逃げを試みて集団をかき回した選手の100位とは、崇高さが違う。
  もちろん勝負の世界だから順位は大切だし、こんな僕でも勝ちを意識してせこく立ち回ることもあるから(特に若い頃はひたすら順位を狙いに行ったこともありました)、あんまり言えない。だけど、そんなのばっかりじゃあ、つまらないと思う。
  僕はレースというのは、選手役員観客が一体となって作り出す総合芸術だと思っているから、自分の順位だけを考えてセコセコ走る人ばかりだと、自転車競技自体の発展にもかかわってくるんじゃないかと心配してしまう。
  まあ馬鹿みたいに大逃げしても、たまに逃げ切ることもあるし、せこいばかりが勝つ方法でもない。
  僕が今、レースに求めているのは、「順位は何位?」というデータベース的なことばかりじゃなくて、課程としてのドラマなのである。


日記3. <シマノ鈴鹿ロードレースに参加して>

  シマノ鈴鹿ロードレースに行った。
  仕事でコルナゴのブースを出して、ついでに国際ロードを走った。ブースで小物を売ったり、荷物運びをしたり、商品説明をしたり、立ちっぱなしでもう脚はパンパン。レースどころじゃない気分もあった。だけど、たくさんの旧友と生死を確認しあえてホントによかった。
  チームロードでムラのある走りをする若手を怒鳴り散らす神様安原昌弘氏の相変わらずの姿に心を熱くしたり。スペシャの営業になっていてユーキャンのユニフォームを着る安藤康洋といっしょにウオーミングアップに行ったり。その昔サンツアー時代には仲の悪かったはずの村岡勉が、スタート前にゼッケンを安全ピンで留めて世話をやいてくれたことがうれしかったりして。みんな当時とは違うユニフォームで、それぞれおっさんになって、それぞれひたむきに走る姿に刺激と感銘を受けた。

 

  自分はというと、6年ぶりのレースだとはいえ、昨年完走できなかったこの鈴鹿国際ロードを周回遅れにならずフィニッシュできればいいなあというぐらいの気持ちで挑んだ。結局今年、完走は遂げることができた。だけど、わきあがるような喜びも無く、なぜだかあまりうれしくなかった。むしろ罪悪感のようなものさえ漂ったのを感じた。
  理由は、ぜんぜん前を引かず、ツキイチで消極的なレースをした自分への嫌悪感だったのかもしれない。もちろん今の自分にとって、シマノ鈴鹿国際ロードはレベルの高いレースだから、積極的に前を弾いてアタック展開したならば、ボロボロに砕け散る可能性が大きいと思う。でも、レースの美学と言うのは前回述べたように、「過程としてのドラマ」であるべきと考えるなら、この鈴鹿ロードでの僕には、ドラマは何も無かった。集団の後ろに始終へばりついている情けない奴にドラマなどあるはずも無い。

 

  昨年僕は、力も無いのに無理やり逃げを試みようとして、力尽きちぎれて、結果周回遅れになった。でも、昨年の完走できなかった僕はある意味、今年の僕より少し無謀だけど勇敢で躍動感にあふれていた。果敢なトライを試みて、集団の中で動き、アタックを仕掛け、グリコーゲンと気力の全てを残らず使い果たし、自分のもてる限りを全てレースにぶつけたのだ。そう。昨年の僕にはドラマがあった。確かに、昨年の完走できなかった僕は素敵だった。

 

  そんなわけで、前回の二番煎じになるけれど、周囲にいる普通の人の「完走したのか。すごいじゃないか。何位だ? 何位だ? 何位だった?」という言葉に惑わされること無く、クールに自分を見つめていきたいと思った。
  いま本当に自分が求めていることはそんなことじゃないから。
  もちろん勝負の世界だから、順位は大切だ。だけど、長い自転車競技生活を通して順位の評価よりもっと大切な事があるというのを、僕は何よりも知っているつもりだから。


日記4. <ね~うしとらう~たつみ~♪>

  僕はここ何年も年賀状を出していない。最後に出したのが、1997年の自分のヘアーヌードの年賀状だったから、かれこれもう8年も出していないことになる。
  ヘアーヌードの年賀状は、けっこうアーティスティックに撮れていて、自分では「しぶいんちゃうか」という程度だったのだけど、まわりの反響は相当ショッキングだったらしくて、当時サイクルスポーツ誌やバイシクルクラブ誌、そしてニューサイクリング誌にもお届けしたにもかかわらず、「読者からの年賀状紹介ページ」に載せてくれたところはひとつもなかったというのが、その寒さを物語っている。
  データ、まだ捨ててなければ、お見せ出来ます。連絡いただければ探してお送りしますが。

 

  まあそんなことが過去にはあったのだけれど、来年はまともなサラリーマンらしく、何年かぶりに年賀状を出そうと思い、ふと考えた。

 

  「来年の干支ってなに年やったっけ?」

 

  ねー牛虎うー辰みー・・・・。ええっと? 次なんや? うま? ええと。ひつじ? 猿やったっけ・・・。 とり? 犬。いのしし・・・。
  やっとこさ全部言えたものの、なんだか歯切れの悪い不思議な感じを受けた。
  前半部分の「ね~うしとらう~たつみ~」はリズミカルでテンポがよくって、おどりながら歌うように、なんぼでも言える。

 

  ね~うしとらう~たつみ~♪ ね~うしとらう~たつみ~♪ ね~うしとらう~たつみ~♪

 

  テンポのよさに心までうきうきとして、口ずさむだけでホント気分がいい。でも、後半部分と来たら一体なんだ?

 

  うま・ひつじ・さる・とり・いぬ・い

 

  ただ並べてるだけやないか。
  テンポがよくってリズミカルな前半の乗りは一体どこに行ってしまったんや!

 

  前半部分のネズミを「ねー」、ウサギを「うー」、というような斬新かつウイットに富んだ表現方法が後半戦ではほとんど見られず、イノシシを「い」という言うだけに留まっていて、全体のリズムのバランスが非常に悪い。
  そんなわけで十二支をスムーズに憶えて口ずさんで楽しむために、僕はここに一つの提言をしたい。後半部分の編曲と編詩である。
  ウマを「まー」、ヒツジを「ひー」でもあえて「めー」といったらどうか。

 

  ね~うしとらう~たつみ~♪ ま~め~さるとりいぬい~♪ イエイ!

 

  とか、すこしラップ調で口ずさめば、かなり素敵で十二支がすっかりあなたの身近なものになる。でも一円も得しません。あしからず。


日記5. <ギターは生きている>

  先日中京地域出張の折、岐阜のショップKUROSAWAの黒沢氏とその奥さん、更には相互リンクしている「サトルの自転車日記」の田畑サトルくんまで登場して、イタリアンで飯を食って談笑した(奥さんのおごりでした。ご馳走様でした)。

 

  「自分の見ている赤色と他人の見ている赤色は果たして同じように見えているのか?」といった高尚な話題を慈しんだり、黒沢氏の回転の速いボケに翻弄されながら楽しい食事を味わった後、ギターを弾いて夜更かしをした。
  黒沢さんは久々のギターで「指が痛い」とのたまうが、5年も弾いていないあいだ愛用のギターはその日まで、ギターケースの中にしまいこまれたままだとも言った。黒沢氏によれば、ギターケースの中というのはギターにとって最も状態のよくない場所なのだそうだ。
  人間でも暗くて狭いところに長時間監禁されれば当然精神や肉体にもよくない影響があるだろうが、ギターも果たして人間と同じだという。監禁されたギターは音色もよくないのだそうだ。そう。つまりギターは生きているのだ
  それは僕も以前から、ある出来事によって薄々感づいていたことだった。

 

  ある日、つれづれにギター遊びをして弾き疲れた僕は、カーペットの床にギターを平置きにし休憩していた。その時突然、強烈な放屁欲が僕を襲った。つまりオナラがしたくなったのだ。一人の部屋で誰に遠慮もすることがないということもあって、僕は「実でもモロミでも一緒にいてまえ」的なキバリで豪快に放屁した。幸いモロミはいでず、大音量の乾いたオナラが部屋に響き渡った直後、僕が目にしたのは、オナラ音に共鳴して「ぶわわわわあ~ん」と唸り声を上げる愛用ギターの姿だった。

 

  うわああ。ギターも一緒にオナラしよった!

 

  やっぱりギターは生きているのだ。
  でも、それはギターに限ったことでなくて、ヴァイオリンなども弾き手の愛着によってどんどん音色を深めていくというし、もっと言うとそれは楽器に限ったことでもない。
  自転車だって、車だって、乗らずに放っておけば、油やグリスが固まって動きが鈍くなるし、バッテリーもあがる。コンピューターはヘソを曲げることがあるし、持ち主じゃないとエンジンがかからない車も珍しくない。
  人間によって作られた道具や機械は、無機質的な素材から手を加えられ組み立てられ、使い愛されることによって、一種の魂みたいなものが宿るんじゃないのかと思った。そんなわけで、すべてのものに魂が宿るという日本古来の八百万の神や、更に古代のアニミズム信仰は、ギターがオナラをするという事実によって一気に合理性を帯びるということに気づいた、それはそれは素敵で素晴らしき岐阜の夜だった。
  黒沢さん。ギターを監禁から解いてやってくださいね!