日記6. <なんで人間は生きているか? その本当の意味とは。>

  「あたし、今日わかってん。なんで人間は生きてるか」
  会社から家に帰ったら、嫁が開口一番にそんなことを言った。
  いきなり「なんで人間は生きているか?」である。まだシャワーも浴びてないし、ビールも飲んでないのに、人類存在の意味への考察が我が家の茶の間に持ちかけられているのである。
    僕が「人間が生きている意味とは一体何なのだ。何のために人間は生きてるのか?」なんちゅうことを酔っ払った勢いでまくし立てることが影響してか、嫁まで日々の哲学を実践するようになったようだ。夫婦で哲学について語り合うのも少し気持ち悪いような気がするが、まあいい。
  で、「なんでやの?なんで人間は生きてるの?」と問うと。

 

  「人間はまわりの人のために生きてるのよ。家族や親友を大事にしたいと思うから、そのために苦しくても頑張って生きるのよ。一人ぼっちだったら、きっと生きていく張り合いがないから」

 

というようなことを言った。
  なるほど、ええこと言いまんなああ。確かに正論のようである。でも、僕はその言葉の意味について、その後なぜか深く考え込んでしまった。

 

なぜ人間は生きているか → まわりの人を大事にしたいから

 

  もし、これを人間の本能に当てはめるとどうだろう。

 

なぜ人間は食事をするか → 美味しい思いをして、空腹と言うツライ状況を打破したいから

 

なぜ人間は眠るか → 寝るのが気持ちいいから。寝ないと心も体も疲れるから。

 

なぜ人間はセックスをするか → 好きな人と愛を確かめ合って、気持ちええ思いがしたいから

 

という風になる。だけどよく考えてみると上にあげた例は人間の本能的な行いの見せかけ上の目的であるということに気づく。つまり僕は、物事には何でも「見せかけの目的」と「本来の目的」があると思うのだ。

  人間が食事をするのは、美味しい思いをしたいからではなく、本当の意味は「食物を得ることによって体を維持してエネルギーを蓄え、死なないように活動するため」である。美味しい思いをしたいというのは、死なないように活動するためという大事な目的を遂行しやすいようにする餌みたいなものなのである。
  同じように、人間がセックスするのも、性的に気持ちエエ思いをするためでなく、本来の意味は「子孫を残して人類という種を存続させていくため」である。セックスが気持ちエエのは、人類を存続させていく大事な目的を遂行させやすくするための見せかけ上の目的なのである。
  まとめると、つまりこうなる。

 

なぜ人間は食べるか?
→ 美味しいものが食べたいから(見せかけの目的)
→ 死なないように活動するため(本来の目的)

 

なぜ人間は眠るか?
→ 寝たら気持ちいいから。寝ないとしんどいから(見せかけの目的)
→ 死なないようにするため(本来の目的)

 

なぜ人間はセックスをするか?
→ 気持ちいいから。(見せかけの目的)
→ 子孫存続のため(本来の目的)

 

ということをふまえて、「人間はなぜ生きているか」これは「なぜ人類は存続しようとしているか」ということと同義であるとして・・・その本当の意味を考察してみた。

 

なぜ人間は生きているか = なぜ人類は存続しようとしているか
→ まわりの人を大事にしたいから(見せかけの目的)
→ 平和で豊かになってみんなが幸せになってほしいから(これもまだ見せかけの目的)
→ 未来永劫に渡って人類が繁栄してほしいから(その後どうなる)
→ ・・・・・・・・・(本来の目的)

 

うっうっ。わからん~。

 

というわけで、セックスの本来の意味を子供を作るためとして導き出される、人類存続の本来の意味は何かというと、これがやっぱりよくわからない。セックスをすれば子孫を作れる。同じように、まわりの人を大事にすれば、それはやがて人類を素晴らしくしてくれる要素になるのは想像に硬くないのだけれど、その先にはいったい何が待っているのか。
  宇宙のすべてを観測し尽くして理論上の謎を説き明かしたとき人類は小さな別宇宙を作り出し、神の次元へとステップアップすることができる。といえばマッドなSFだろうか。
  頭の中は形而上のかなたへすっ飛んだりする。
  でも、そんなこと言いながら、セックスは気持ちがいいからやりたいし、美味いもんは美味い。だから、やっぱり身近な人のために生きるのは気持ちのエエことやねんなあ、と思うぐらいの下世話なレベルの自分をけっきょく実感する秋の夜長でした。


日記7. <社会的立場とか肩書きを考えることについて>

  僕はあまり人の立場を考えない人間だといわれる。ここに言う立場とは社会的な肩書きをも含めたものである。まあ、そうした意味で、ぼくは失礼な人間と思われることがよくある。でも、人の立場を考えるというのは果たして人間社会で本当にプラスになることなのかなあと、昔からよく思う。
  ある会社で入社してすぐにずけずけと意見を述べたことがある。別に間違ったことを言った覚えは無いのだけれど、結果的に「新人のくせに言いたいことを言うな」といった雰囲気のもと大変な攻撃を受けたことがある。その時、僕は何かが狂っていると思った。言い方が偉そうだったのは反省するべきことかもしれないが、「新人のくせに」と言った時点で、正しい判断がすべてスポイルされてしまうのではないと考えたのだ。

 

  例えば、殺人を犯した人が「人を殺すのはよくないことだ」と言ったらどうか。説得力は無いし、「殺人犯のくせに、そんなこと言える立場か」と相手にしてもらえないのが落ちかもしれない。でも「人を殺すのはよくないことだ」というのは誰が言ったとしても、本当の正しいことである。
  僕は、新入社員が言おうが、乞食が言おうが、人殺しが言おうが、正しいことは正しいし、総理大臣が言っても間違ったことは間違っていると信じている。でも世の中は実際そうではなくて、偉い人が間違ったことを言っても、それを正しいことのように湾曲捏造してしまう傾向がある。また社会的に立場の弱い人が正しいことを発言しても、その人をサポートするメリットが無ければ、正しいことがまたもや間違ったことのように湾曲表現されてしまうこともあるのだ。
  それは「嫌いな奴が、どれだけ正しいことを言っても認めない」的な「好きな人なら間違ったことを言っても賛成する」的な感情的な理論が備わっている。
  きっと現実論から言うと、僕のように立場を考えずに、自分が正しいと思う意見をストレートに述べるのはソンな事が多いのかもしれない。でも、理想論から言うと、それによって、真理を求める意見を戦わせて、本当の正しいことは何なのかと議論し、行動を修正していけるというメリットもある。
  そんな意味で、人の立場を考えると言うのは、感情主義で権威主義的な一種封建性の強い思考スタイルではないかと思う。つまり人の立場を考えることによって、越えていけないステージがあると思う。
  とは言え、誰も痛い目にあいたくないから、立場を踏まえた意見を言うだろし、僕も少し大人になったから、そういう時もある。けど、それが理想じゃないと言うことは、常に心の片隅に置いておきたいと思う。


日記8. <新幹線で指定が取れなくても座って帰れる方法。>

  出張で東京に行くことがよくある。車で行くこともあるし、新幹線で行くこともある。実は、このあいだの新幹線で東京から帰って来たとき、ある素晴らしいことに気づいた。もっと早くから気づいていれば、幾たびもしんどい思いをしなくてすんだのに、本当に僕はアホだと思った。

 

  僕は新幹線で東京に行く時、金券ショップやなんかで少しディスカウントされた指定席特急券つき乗車券を購入するのだけど、当然座席の指定はオープンになっていて、前日とか乗る直前にみどりの窓口で「禁煙席お願いします」とか言って座席指定をすることになる。
  先週も東京出張で金曜日の夕方に仕事が終わり、五反田のみどりの窓口で、一番早く乗れる大阪行きの指定席をたのんだら、見事に満席ばかりだった。少し空席があるのはなんと2時間半後である。早くおうちに帰りたいのにい! 
  けっきょく指定席で座るのはあきらめた。品川駅乗車。自由席の奇跡的な空席を狙うか、さもなくばデッキで3時間立たされ坊主になる覚悟を決め、ベルが鳴る発車直前のひかり号に乗り込んだのだった。
  あんのじょう、金曜夕方の夢の超特急はデッキまで出張族のおっさん(って俺もやけど)であふれかえり、立っているだけでもそれは困難な苦行といえるほどだった。
  しかしこの時、空席を求めて車内をウロウロしていて、ちょっとしたことに気づいた。
  自由席やデッキはおっさんでいっぱいなのに指定席には空席がちらほらと見受けられるのだ。確か大阪までの指定席は満席と聞いたはずなのに変である。しかしよくよく考えてみればこの列車は「ひかり」で熱海や静岡そして浜松にも停車するバージョンのものである。もし静岡から浜松までの指定席を取った人が存在したとすると東京‐静岡間と浜松‐大阪間は空席になる可能性があるわけで、物理的にはその二区間では座る席が存在するということである。同じような理由で静岡‐浜松間が空席になっているところもあるはずである。つまり大阪までの指定席が満席というのは「大阪まで通して座れる席が満席」ということなのだ。
  ひらめいた! 要するにこうである。指定席のあいているところに座って、途中の停車駅でその席を指定している人が来たら「へへへ」とか愛想笑いをして他の空いてる席に移ればよいのである。そうすれば、停車駅ごとに席を変わらなければいけないが、おそらく確実に大阪までは座って帰れるはずである。ちょっと面倒くさいがデッキで三時間立たされ坊主でいるよりは500倍マシである。それに何と言っても、僕の持っているチケットは指定席特急券である。大阪まで通して座れる席がなかったため指定は取れなかったが、指定席に座る権利はあるはずである。だって金は払っているんだから。(と言ってもディスカウントなんですが)
  そんなわけで僕は、ひかり号禁煙指定席の空いてる席にどかっと腰を下ろし、歩き疲れた両足の労をねぎらった。しばらくすると車掌が乗車券のチェックに来た。予想通り、指定を受けていない指定券を持つ僕に「混み合いまして申し訳ありません。静岡でこの席を指定されてる方が乗られますので、その時は席をお空け下さるよう・・・・・・」とちょっと困った顔をしながらも、例の小さなスタンプをペタリとしてくれた。もちろん持ってる券が自由席券だとこうはいかないだろうが。

  車掌の困った顔からすると、規則上は本当は認められていないことなのかなあとも思ったが、「席が空いているのに指定席券を持っている人が立っているのはおかしい」という理論は強いようである。
  そうして僕は三時間のあいだに座席を転々としながらも、一応「座って」大阪にたどり着くことが出来た。事情を知らんオバハンが、不法に指定席に座っていると勘違いして僕をにらみつけたりしたが、そんなのは無視である。
  思えば今まで指定席が取れなかったら、指定席券を持ちながらもデッキでアホのように立ちつづけ、ついには疲れ果てて新聞紙をひいて床に座るという情けない行為を繰り返していたことが悔しいくらいである。
  皆さんどうぞお試しください。指定席券を持っていれば、指定しなくても指定席車両には座れます。ええ。知らんかったんは、俺だけやて! そんなことないでしょ。
  こんど「のぞみ」でも試してみるつもりです。


日記9. <春の陽気はドーパミンを刺激する。>

  先日、急に暖かくなった春先のとある日、たまたまの電車通勤をしてみたら、春の予感に彩られた変な体験をした。
  会社帰りの南海高野線ナカモズ駅。ああ早くビールでも飲みたいなっと、仕事に火照った頭をモウロウとさせホームで突っ立っていると、何やらかたわらで上機嫌に会話し、声を弾ませ、ひとりで笑うおばちゃんがいた。
  「そやからねえ。そんなこといわれてもあたし困るしおほほほほほほほほほ。うん。わかるわあそんなんあたし好きやからほほほほほほほほほほほほほ。そやねえはははははははははははははははははははっはああははああはは」
  と、おばちゃんは身をよじらせ楽しそうに談笑を楽しんでいた。おばちゃんの周りには人影はなく、初めは携帯電話でもしているのかなと思った。でもよく見たらおばちゃんは携帯電話など持っていなくて、正真正銘ひとりで語って笑いつづけているようだった。

 

  へっ変や! 独りで喋って笑ってる! 


  と、驚いた。
  どうやら躁的な精神トランスをおこされているらしい。ちょっとびっくりしたけれど、まあ西成のあいりん地区にいけばそんな人は五万といるから。そんなこと思いながら、何気にホームの貼り広告を見つめ、一瞬後におばちゃんの方を振り返ったら、もうそこには誰もいなかった。ボケ老人や徘徊人によく見られる行動パターンである。

 

  変な人やなぁ、と首をかしげていると、今度はいきなり誰かに話し掛けられた。見ると、ジーパンはいた普通のおっさんである。しかし何やら目つきが尋常でないようにも見える。おっさんは僕にこう言った。

 

  「あのうぅ。ナカモズの電車は・・・ここから出るんですか?」

 

  ナカモズの電車? 確かにここはナカモズの駅であるから、このホームから出る電車はナカモズの電車と言えなくもない。でも、そういう意味から言うと反対行きのホームから出る電車も「ナカモズの電車」であるわけで・・・、けっきょく僕は少し混乱して、こう言った。
  「ああ。はい。ナカモズの電車はここから出ると思います。・・・でも、あっちのホームから出るのもナカモズの電車だから・・・ええっと」
  と、僕はそこまで答えて自分がなんだか変な会話をしていることに気づき、我に戻って考えをきりなおすと、おっさんにこう言った。
  「ところで、あの。オタク何処まで行かれますのん?」
  するとおっさんは、焦点の合っていない瞳孔を開き忘却の彼方をながめてこう言った。

 

  「なぁかぁもぉずぅ~」

 

  はあ。何言うてんねんこの人「あのねえ。ここがナカモズですよ」
  すると、おっさん大きくカッと目を見開き、「ええっ!」と驚愕した後、2秒ほど何もなかったように沈黙し、

 

  「なぁかぁもぉずぅ~」とつぶやいてフラフラとどこかに消えた。

 

  なんか今日は変な人が多いなあと思っていると、帰宅途中停車した堺東の駅のホームでも
  「ぐぎゃー」と奇声を上げている人が見えた。

 

  そうか。今日は急に暖かくなったからなあ。しょうがないか。

 

  春先になり、突然に暖かい日がやってきたりすると、幸せ心地な暖かさのため、時に壮絶にルンルンルンという気分になってしまうことはないだろうか。春になると人の脳や精神というのは陽気によって特別な刺激を受けるというのは間違いがない様で、それは人によるとドーパミン垂れ流し状態的な躁状態を生み出すと言う。精神的に不安定な人はそんな状況にさらされやすいけれど、そうでない人だって春になれば心が浮きおどる傾向にあるのだから、逆にいうと、ドーパミンどぴゅどぴゅのこの時期は新しいアイデアを搾り出すのに向いているんじゃないだろかなと思う。春は躍動的な考えを手助けしてくれる季節なのかもしれないなあと。

 

  ところで僕は、春の陽気によって精神不安定な人たちが躍動している事実を知り、精神病者の生活保護給付金をもらっている友達のことが気になった。まあ、それで彼に電話してみた。
  春の陽気は誰もをハイにさせるものかと思ったが、彼はひどい落ち込みの真っ最中ですっかり生きる自身をも失っているかのように見えた。僕はせめて彼が小さなストレス祓いをできるように、勇気をもって岸里玉出の駅前で直立し独りごとをブツブツ言うことを薦め、電話を切った。

 

  まあ春の陽気と言っても人によって様様な影響を及ぼすもんである。ははは。そう。春の精神の昇降は実に激しいのである。まるでジェットコースターに乗ったみたいや。ははははは。そいで、それはオシリの穴がキューンと締め付けられるようで、なんかもうむっちゃワクワクする。おっほほほほあほほほ。春はほんま最高に気持ちエエで! なんか変な気分・・・。あはははははははっははははははっははははははっはははははっはははははは。うっふふうっふぅ。


日記10. <お墓参りに秘められた事実の理論 (セオリー)>

  天気がよいので、この休日にお墓参りに行った。とても気持ちがよかった。
  昔のヤクザな頃の僕はお墓参りが大嫌いで、それをただの面倒だと思っていた。お彼岸に母親から墓掃除を頼まれたりすると、スッカリ不機嫌になって、ぷりぷりしながら墓石に水をぶっ掛け、めちゃくちゃ適当でずぼらな墓参りをしたものだった。でも最後にはきっちりと合掌だけして「あのねーちゃんをイテこませますように・・・」とお願いだけはしてたもんだから、ますます罰当たりであったと思う。
  しかし、ある日からそれが変わった。

 

  僕はある出来事を境に、お墓参り好き好き人間になってしまったのだ。

 

  それはまだキャノンデールに勤めていた時代のお彼岸のことだった。僕は毎度のように母親に墓参りに行くことを薦められ、毎度のように面倒くさいなあといった面持ちで墓地にぼちぼちとおもむいた。
  そのとき本当に暇だったこともあって、心には何がしかの余裕があったのは事実である。「まあどうせ暇やから急ぐ意味もないし」といつもより時間をかけて、いつもより丹念に墓を掃除した。気候は穏やかで、お寺の境内にある墓地は静寂に包まれ、なんだか気持ちがよかった。見上げると雲ひとつない青色の空を鳥がチュンチュンと飛んでいった。
  市場で買ってきたお花を飾って、線香に火をつけた。御影石と仏花が僕の視界を荘厳で鮮やかなコントラストに変えた。線香のアロマが漂い、僕を良い気持ちにさせた。

 

  今から思えばそのとき、僕は軽いトランス状態に達していたのかもしれないと思う。

 

  快晴の昼間の静寂。花の映像。線香の香。そして墓掃除をすることによって自らが清められていくような充実感。そんなすべてが僕を崇高な何かに向かって駆り立てていた。
  ここに僕の祖先がいて、そのつながりの果てに僕がいる。そんな風に思うと不思議な気分が自身を空中浮遊させるようだった。
  僕は合掌した。でもいつものような俗物的なお願いごとは頭をよぎらなくって、目を閉じると何もない空虚な宙に無心な僕がいた。今にして思うとそれは瞑想の境地であったに違いない。
  穏やかで充実した気分のひと時が終わり、「お墓参りって気持ちが良い!」と思った。

  さて話は、その二日後のことである。友人たちと新世界あたりでしこたま串カツを食って酒を飲んだあと、僕は酔っ払い上機嫌で「次にくりだすぞ~」と道に飛び出した。
  僕は左側を向いていて右から高速で突っ込んでくる車にまったく気づいてなかった。後ろから見ていた友人たちは、僕が完全に跳ねられると思い、真っ青に引きつったという。

 

  ところが不思議なことがおこった。

 

  僕は車の存在にまったく気づいていないにもかかわらず、寸前で急ストップした。その一瞬後、僕の前方2センチのところへタイヤを鳴らして車が急停車。運転手も僕を跳ねたと思い硬直した冷や汗顔になっていた。
  もうあと一歩踏み出していれば、骨ぐらいは確実に折っていただろうし、下手すると命さえ危なかったかもしれないとさえ思う。それぐらい車は速いスピードだったというし、僕の駆け出す勢いも強かった。
  もちろん僕はぜんぜん車に気づいていなかった。だからそれは、走り出して無意識になぜか足を止めたら、目の前のぎりぎりにタイヤを鳴らした車が突っ込んできて、生死の境目にいたということなのだ。まさに驚愕と呆然の二段ロケットだった。

 

  どうして僕はあの時、止まれたのか? 理由はわからないけれど、お墓参りとの関連性は誰もが指摘するところである。一般的に「お墓参りに行けば良いことがある」みたいなことは言われるけれど、その時、迷信めいた言葉の中にも事実の理論(セオリー)が隠されていることを感じた。

 

  例えば「秋の夜長」という言葉がある。これは秋には夜更かしタイプの人間が多くなるという意味の言葉だが、それは秋になると収穫されたばかりのビタミンAたっぷりの新米を人々は食べるので、その結果、眠気に対して強くなるという事実の理論(セオリー)に基づいたものである。つまり「秋の夜長」は迷信ではなくかっこたる事実であるということがわかる。
  ちなみに「春眠暁を覚えず」という言葉は「秋の夜長」とはまったく逆で、一冬越した米が古米になってビタミンAを失ってしまい、春になると眠たくって仕方がないという、これもまた事実の理論(セオリー)なのである。
  もうひとつ例をあげると、徳島県では「野焼きのときに風下には行くな。行けば狐に憑かれる」という言い伝えがある。これはその昔、徳島の自然にたくさん自生していた麻の存在とその薬理作用を表すものである。麻はすなわちマリファナであるから、野焼きをすると自生していたマリファナも燃えることになる。マリファナが燃えるとその成分であるテトラヒドロカンナビノールが煙となって空気中に漂うことになる。それで、風下にいるとそれを吸ってしまい、マリファナを吸った状態となり目つきや言動がおかしくなる。結果、それを狐に憑かれたと表現するにいたったわけで、「野焼きのときに風下には行くな。行けば狐に憑かれる」というのもこれまた事実の理論(セオリー)であることがおわかりいただけると思う。

 

  そんな風にして考えると、「お墓参りに行けば良いことがある」というのも単なる迷信ではなく、事実の理論(セオリー)としてとらえてみるのが正しいのかもしれない。
  例えば、花を見て美しいと感じる脳細胞神経系Xと、線香の香をかいだときに反応する脳細胞神経系 Y と、先祖のことを思う脳神経細胞 Z とが同時に覚醒し穏やかで崇高な気分になると、予知能力と俊敏性を司る前頭葉神経気系 β が活発に働き、事故を回避する能力が高くなるとか。
  まあもうすぐ科学がそれを解明してくれるとは思うけれど。

 

  しかしそれとは別問題としてお墓参りは、その行為自体が気持ちがエエもんやと思う。お彼岸でなくても、たまに行くようにしてます。