日記21. <僕が書いた小説「ヴィシュヌ牛太郎の功績」について>

  僕は以前小説家を目指していくつかの小説を書いたことがあって、その中で実際、本になったのが「しめ飾り」というやつ。でもボク的には本にはなっていないけど、もっと面白くてもっと中身が深いと思う小説がある。それがこの「ヴィシュヌ牛太郎の功績」という科学空想ファンタジー?小説である。

 

  「ヴィシュヌ牛太郎の功績」のストーリーはこんな感じ。
  第一章でいきなり、ネパールのポカラに住むヴィシュヌ牛太郎という野良牛が登場する。
  (この章は、ネパールの話なのに牛太郎なんて名前の牛がいて、しかも牛の視点から見た妙なファンタジーになってます。ちなみにヴィシュヌとはヒンズー教の神様の名前です。)
  牛太郎はある日散歩の途中に道草をモグモグと食べるのだけど、それは大麻つまりマリファナだった。(ちなみに実際ポカラでは道端に大麻がたくさん自生している)牛太郎は大麻を食べてフラフラと変な状態になる。親代わりでもある物知りのクリシュナ牛爺によるとそれは「人間の吸う酒」であるという。牛太郎はさらなる精神の変遷をもとめ「吸う酒」を吸うため人間に近づこうとする。やがてある男から火のついたガンジャのジョイントを差し出され、牛の立場でありながら、実際にその煙を吸う。そして、いい気持ちになる。その後はますますノリノリになり、牛太郎と男は原っぱで一緒に踊って満たされた精神状態になる。
  とまあここまでが第一章。

 

  第二章からは少し現実的な描写になって、第一章と関係なくはじまる。
  舞台は同じくネパールのポカラ。ジヴァンという超天才少年が登場する。ジヴァンは外人観光客が利用する小さなホテルで働いている。ジヴァンはカースト制の低い身分の洗濯屋の子供で、学校には行かせてもらえず、知り合いから本を借りたりしながら独学で勉強をしていた。そんなジヴァンの父親(文盲である)は「洗濯屋に学校の勉強なんか必要ない」と勉強しているのを見つかると逆に怒られたりする。
  しかし、ジヴァンは独学で勉強するうち星の輝きや雲の流れから宇宙物理学の理論を自らの頭脳だけで解き明かし、発見することができるようになる。それは驚くべきことに現代宇宙物理学で追求の頂点となっている「量子力学と相対性理論の統合」つまり宇宙の法則をひとつにまとめた「大統一理論」を創り上げたということであった。彼の理論感知能力はすべてを予測できるほどだった。しかし気弱な性格でもあった。
  そんなときジヴァンのホテルにトーマスとマギーというイギリス人のカップルがくる。トーマスは投資家。株で金をもうけている。ある日、トーマスが部屋でPCを使って株価をチェックしていると、たまたまジヴァンが訪れトーマスの持ち株が暴落することを予言する。トーマスは、「ホテルのボーイに何がわかるんだ」と、相手にしない。
  数日後トーマスは仕事の関係でイギリスに帰らなくてはいけなくなる。ジヴァンは「カトマンズに行ってはいけません。危険です」と告げるが、やはりトーマスは相手にしない。ところが、トーマスとマギーが飛行機に乗るためカトマンズに着くと、ネパール皇太子発狂による王室殺戮事件が起こり(これは実際にあった事件)空港閉鎖、戒厳令、軍隊の発砲などジヴァンの予言どおりのことが起こる。トーマスはジヴァンの不思議な能力を信じ、ポカラに戻ると、ジヴァンの予言力をビジネスに引き入れようとする。(もちろんこれは予言ではなくジヴァンの理論的思考から得られた答えであったのだが)
  「なあジヴァン。一緒に投資で儲けないか」とジヴァンを口説くトーマス。
  そんな中、トーマスは大学の友人のブライアンとポカラで偶然に会う。ブライアンは宇宙物理学の博士であり、ジヴァンの天才的な能力と宇宙物理学で最高の焦点である「大統一理論」の解明と発見を知り、彼を研究のため大学へ引き入れることを考える。
  ジヴァンをビジネスに引き入れたいトーマス。そして大学で研究をさせたいブライアン。旧友2人の間にうごめくそれぞれの思い。
  そして「ヴィシュヌ牛太郎」の再登場による展開の終結。
  さあさあジヴァンの運命やいかに?
  まあこんなところが大まかなストーリーの流れです。

 

  その他モチーフについて。
  この話の中身には、ネパールという地理的な特徴とその意味。つまりヒマラヤの周辺にはチベット・インドなどの聖地と聖人の出現が多く、それはヒマラヤという地球上で一番高い山々がそびえる地域には特別な重力分布による霊的なエネルギーが渦巻いているんではないかという考えが根底にあります。
  また、ネパールはインドコーカソイド系とチベットモンゴロイド系の混血地帯であるということも話の深いモチーフになってます。つまり混血は優れているんではないか。犬も猫も雑種の方が病気しない。そしてお釈迦さん、つまり仏陀も混血であった可能性についても。
  さらには「数字とは現実に存在するものなのか?」という疑問や、「生きて努力をする意味とは?」など哲学的な問題もストーリーの中に組みこまれてます。

 

  僕がこの小説を書いたのは、放浪中のカルカッタからスリランカまでのインド東海岸を南下しているときで、安宿を渡り歩きながら約一ヶ月で書き上げました。
  ストーリーのモチベーションはそれ以前からありました。
  ネパール・アンナプルナの山をトレッキングしたとき、大麻草だらけの河原で、どうやら大麻を食べてしまい目を真っ赤にした馬がストーン状態で立ちすくんでいるところを見て「牛太郎」のイメージが生まれました。その後ネパールではルンピニという仏陀の故郷で「混血のイメージ」が僕を刺激し、インドに降りてからは、カルカッタでネパール王室殺戮事件のニュースに驚きました。「一週間前までいたところでなんて大事件が!」しかし、これによりますますこの小説の骨組みに刺激ができました。

 

  ネパールの描写に関しては、現実と異なることもあるかもしれません。ネパールの人々は、牛の背中をタオルびんたなどするのか? カースト下層の洗濯屋の夫婦がインド系とチベット系なんてあるのか? とかどうでしょう?

 

  以上そんなお話です。
  以前はこれを文学賞に出したりしましたが、ぜんぜんダメでした。もういちどどこかの文学賞に出そうかと思ってみましたが、それよりたくさんの人に読んでもらうためにはこのサイトで発表した方が手っ取り早いかなとも思いました。
  自分の中ではかなり名作です。枚数は原稿用紙換算で250枚ほど。
  読みたい人はメール下さい。ワードでならすぐお送りできます。


日記22. <猫の近親相姦について思う>

  先日のことである。うちの庭で小さな黒猫が死んでいた。やっと乳離れをしたぐらいの子猫である。隣のベランダで生まれたこの野良猫の子を僕達は「チビクロ」と呼んでいて、前からその存在を知っていた。うちと隣の間にあるトタン塀の上から降りれなくなったのを助けてあげて、ナデナデをしたこともあったから、彼がオスであるのも知っていたし、死んじゃったのはショックな出来事だった。
  数日前から元気がなくなり痩せこけていた。親猫もいるのでどうにかなるかぐらいに思っていたが、衰弱は激しくて、ある日ついにうちの庭の片隅で動けなくなっているところを発見した。ミルクを与えてみたが、少し舐めてまたすぐに横になった。
  その日、大阪は39日ぶりに真夏日を下回る涼しい気候で、僕は久しぶりに長い距離の練習(といっても50キロぐらいなんですが)に行った。出がけに庭をのぞくとチビクロは小さなおなかをフウフウと動かし寝ていた。ときおり首を動かしたりして、気持ちよさそうにも見えた。だけど、練習を終えて戻ってみると、2時間前と同じ場所でチビクロはハエがたかった死体になっていた。
  保健所の環境保護ナンタラという部署の方に死体をとりに来てもらったのだけど、袋に入れる際に感じたのは死後硬直のカチカチの恐ろしさだった。死後硬直って、いったい何のためにああなるんだろ? 硬くなることによって死体を自然に少しでも保存し、他の動物の餌として提供しやすいようにしている、地球の食物エネルギー効率の意味とかあるんだろうか?

  

  いずれにしてもチビクロはこの世から消えた。

 

  そんな中でチビクロの出生の秘密を知っている僕はあることを考えた。
  実はチビクロの親猫は隣のベランダに住みつくシロクロ野良夫婦で彼らは実の兄弟でもある。昔うちに住んでいたチビという猫の血を引く子供で小さなときから仲がよくて、兄弟で子供を作っちゃったのだ。

 

  つまりチビクロは近親相姦の子であったのだ。

 

  まあ猫のことだから近親相姦なんていうのは珍しいことでもなんでもないのだろうけど、人間でも「血が濃くなる」とか言って近縁での結婚を避けるのは優性で欠落のない遺伝のためだから、猫でもやっぱり血が濃くなることは強い子供を残せないことにつながるのかなと思った。つまり近親相姦で出来た子供は生きる力が弱いのではないか。そしてチビクロが死んだのは、強い子孫を残していくための自然淘汰でもあるのかなと。
  ちなみにチビクロには兄弟がいてメスの三毛猫だったのだが、そいつはチビクロよりずっと先に姿を消したから、おそらく早くにどこかで死んだのだろう。やっぱり血が濃い子は生きる力が弱い。
そんなことをみてると、人間の近親相姦がタブーであることは、本能的なものだけでなく猫の生き様なんかを観察した上であみだされた「生活の智恵」であるのかなと思った。
  窓を開けると、そんなことを知ってか知らずか、チビクロの親、兄弟で夫婦であるシロクロ二匹は何もなかったように隣のベランダでひなたぼっこをしていた。
  なんか無情やなあと思った。


日記23. <イースター島に地球の未来を見よ>

  このあいだ夜中にテレビを見ていて驚いた。
  イースター島のモアイ像のことである。以前に「旅のコラム」で書いたニアス島の巨石文明がイースター島と同じ起源であるということについて語られていたのだけれど、その文明の流れは、イースター島→インドネシアではなく。
  インドネシアの方が先であることがわかり、驚きそして納得した。
  僕が旅のコラムで書いた内容では、宇宙から飛来した高度な文明を受け継ぐムー大陸の末裔であるイースター島の巨石文明がインドネシアのニアス島に流れ、その結果、ニアス島の伝承には先端科学を示唆したことが含まれているのではないのか。ということだったのだが、ムー大陸に宇宙人が飛来した説はさておいて、どうやら文明伝達の順序が逆だった。
  しかし、そのイースター島とモアイを紹介した夜中の番組でもっと驚いたことがあった。それは、モアイ像に関わる島の悲しい歴史の結末とでも言うべきお話である。

  お話をたどるためには、まずモアイ像はいったい何のために作られたか説明しなくてはいけない。僕がその昔少年向け不思議雑誌で読んだところでは、モアイは宇宙人が飛来したことを記念して立てられたということだった。しかし現在の発掘や調査によると、どうやらモアイ像は宇宙人とは関係なくって、部族間の権力や威厳をあらわすために作られたことが分かりはじめている。そのため各部族間には激しい競争意識が巻き起こりモアイ像の高さも初期のころは2メートル程度だったものが後期には10メートルをこすものも現れたという。つまり  その昔のイースター島の人々は

 

  「隣村のモアイに負けてたまるけ。おらが村ではもっともっと大きなモアイをたくさん立ててやるだべえ」

 

  てなノリで「モアイ像建立バトル」を繰り広げていたのだ。
  ところがその結果巨石の運搬に使うため、島のヤシノキが根こそぎ伐採された。広範囲にわたるヤシの森が島から消えうせたおかげで、島の生態系が変わった。そうなると急速に人口が増加していた当時のイースター島の食糧事情は厳しいものになり、部族間同士の争いや殺し合い、飢えをしのぐための食人、そして敵部族のモアイを破壊しあうというバイオレンスで荒んだ状況が島民の人口を減らしていったという。
  17世紀に入ってキャプテンクックが島に上陸した時、島は破壊されたモアイの残骸と生き残りの人々が惨めに暮らしていたそうな。
  僕はこの話を聞いて、イースター島の悲惨な歴史を人類の未来になぞらえてしまった。つまりモアイ像という権力と権威、そして威厳と立場の象徴に固執するあまり、生活する上でもっとも大事なものを失い破滅への道へと進んでいく愚かな地球の未来を想像してしまったのだ。
  まさに今僕達の地球人類社会は資本主義市場経済社会の中で富と権力に埋もれた文明を推し進めていくために、未来の子孫のために更に重要な地球資源を使いまくって破滅への道を歩みつづけているではないか。

 

  イースター島は小さな地球なのだ。

 

  そんなイースター島のモアイを僕達は、反面教師として考え、誤りのない未来の為の象徴として心に刻んでいかなくてはならないのじゃないのか? なんてマジに考えた。
  でも、番組の最後に、日本政府がモアイ像の修復の為に援助金を出していると聞いてこけそうになった。

 

  なんでそんなことすんねやろう。

 

  太古の遺跡を復元したいという気持ちはわかるけど、表向きだけの威厳をつきつめて荒んでいったイースター島の教訓を生かすためにも、

 

  破壊されたモアイはそのままにしておくべきではないのか!

 

  僕達の生きる現代社会でもそこら中に存在するメタファーとしてのモアイをこれ以上増やすことなく健やかに文明と文化を成熟させてほしいもんである。
  富や権力、そして立場や威厳よりももっと大事なものがあると思うから。


日記24. <身勝手なはずである猫の全体主義について>

   僕の自宅の近くの公園にはたくさんの野良猫が住んでいる。ざっと数えても30匹ぐらいいるんではないだろうか。どうしてそんなにたくさんの猫が公園をすみかにしているかと言えば、それは餌を与える人がいるからである。
  ある日の夜中、僕は酔っ払ってフラフラと近所を散歩していた。もともと猫好きの僕である。ただなんとなく猫でも見ようとその公園に向かったそのとき、猫達はどうやらお食事の真っ最中で、30匹が同心円を描きながら囲むその中心で餌を与えている人がいた。遠目に見るかぎりホームレスの方のようだった。

 

  そのとき僕はあることに気づき驚愕した。

 

  餌をあげてる人の回りを銀河系のように取り巻く猫の群れにはある秩序があったからだ。

 

  缶詰だったかカリカリだったか忘れたけれど、中心に置かれた餌を一番最初に食べているのは小さな子供猫達で、その外側には若猫達、その更に外側には年老いた猫達が陣取り、そうした群れの一番外側から少し離れたところには勢いのよさそうな成猫達が外敵から仲間を守るように目を光らせているのだった。
  ほんらい猫とは、個人主義的で、自分のペースで好きなように生きて、協調性などあまりない生き物だと思っていた。しかしである。30匹の群れにもなると

 

  たとえ猫でも自分の立場と役割をわきまえ、集団全体が一つの秩序を創り出すものなのだ。

 

  うちで昔かっていたチビという猫も年老いてからは自分の餌を近所の子猫に横取りされてもおとなしくそばで控えて見ていた。まるで彼らにそれを与えるかのように。つまり個人主義で生きている彼ら猫達も本能の中心では種族全体を考えたアリのような習性を踏まえているといえるのだ。
  人間の集団心理の根源とはこのあたりから発生しているものなのだろうかと思った涼しい夜だった。


日記25. <神道について考える>

  少し前のことだけど。タクリーノの仲間たち、僕を含めた総勢四名は大阪市の平野をポタリングした。平野はそのむかし平野郷という自治都市で、堺と並ぶほど栄えたところだったらしい。町の中心の回りには環濠の跡も残っていて、そこがお堀を持った固い絆の共同体であったことをうかがわせる。
  さてそんな古い町並みや「駄菓子屋さん博物館」なるものも残る平野の町並みの外れには杭全神社という神社もあって、聞けばここを御神体とする「だんじり祭り」は岸和田より古い歴史をもつという。で、僕たちはそこをお参り(というより見学)に向かった。当日はヒチゴサンということもあって、綺麗な着物を着せてもらった小さい子供が両親に手をひかれ、ご祈祷などもされているようだった。
  僕とポピンパさんは本殿の奥にある聖域のような場所に気がついて、そこに足を踏み入れた。普段は扉が閉ざされている場所のようだったが、ヒチゴサンのご祈祷の為に扉はあけひろげになっていた。どうかと思ったけれど、立ち入り禁止ともなんとも書いていないので、僕たち二人はそこに入ってみた。

 

     そこは別世界だった。

 

  苔むした空間に古い祠がいくつかあって、その間には老大木が天に向かってそびえ、悠久の歴史とアニミズム的自然の存在を物語るように聖なる空気をかもしだしていた。扉と塀に囲まれたそこは回りが大阪の住宅地であることを忘れさせるほど、人間とは異質な神の領域を目の前にして僕とポピンパさんは呆然と精霊を感じ立ち尽くしていた。

 

  すると突然後方から声がかかった。

 

  「すいません。こちらご祈祷される方だけですので、入らないでいただけますか」

 

  神主さんの格好をした(というか神主さんでしょう)若い方がそうおっしゃった。彼の後ろを見ると今からご祈祷であろう可愛い子を連れたお母さんらしき影が見えた。僕は小さな声で「ああ。はい」とつぶやくと神主さんがいる右扉とは反対側の左扉へ向かって歩き出した。扉は聖域の右と左にそれぞれあったのだ。僕が左扉から出たのは、鉢合わせしては失礼かなと思ったからだ。そうして聖域の中心を前面とするご祈祷所を横切ってポピンパさんと僕は外へ出た。
  そこまでなら何でもないことだったのだけど、その後ちょっと驚くようなことが起こった。本殿の横にある小さな祠を見学していた時だ。

 

  突然後ろから境内の静寂を破るような大きな声が。

 

  「そこの二人!!」

 

  さっきの若い神主さんが血相を変えた表情で僕とポピンパさん目掛けて詰め寄ってきた
  「あなたたち二人。どうして神前を横切るんですか。こっちが呼び止めているのに返事もせずに、神様の前を手も合わせず横切っていくとは、いったいどういうことなんですか!」
  おっしゃっている内容は大まかにそんなところで、怒りのために顔には血流が湧いており感情的な喋り方をされていた。
  小さい声だったけど返事もしたし、今からご祈祷される人に向かって行ったりしたらその方が失礼と思ったからだよ。それに入っていけないのなら立入り禁止の札ぐらい貼っとけよ。
  と言いたかったけど、確かに聖なる場所に信仰の礼儀を考えず見学気分で来たのは悪いと思ったので、そこは素直にあやまることにした。
  そこまで考えていませんでした。それほどお怒りになられるほど、いけないことだとは知らずに、ホント申し訳ありません。すいません。てなことを述べて反省もすると、若い神主さんは「気をつけてください」と去っていった。

 

  参道の帰り道、僕は神道という宗教についてイロイロ考えをめぐらせた。神主さんの血相を変えた怒りの表情が忘れられなかったからだ。もし仏教のお寺で誤って禁止区域に入ってしまったら、果たしてお坊さんはあんな怒るだろうか。人にもよるだろうけど、僕は仏教に対してはもう少しやさしいイメージを持っている。日本の仏教では瞑想中に居眠りをしたら背中を板で叩かれる禅のようなこともあるだろうけど、タイのお寺では瞑想中に居眠りをする人がいても偉いお坊さんはヤレヤレといった表情をするだけだった。
  神道はなにか厳しい宗教なのだろうか。戦時中の軍国主義時代は神道が日本のナンバーワン宗教だったと言うわけではないのだろうけど。
  ある人は「それはご祈祷所に入るにはお布施が必要なので、金を払ってない人間が入ったことについて怒ったんじゃないのか」とも言ったが、それもどうだろう。
  いずれにしても神道という宗教に関しての疑問が僕の胸にホツホツと湧き上がっていた。

 

  その翌日である。僕の親戚のにいちゃんで学者肌の人がいて、僕は杭全神社での出来事、そして神道に対する疑問を問い掛けてみたが、非常に明快な答えをいただき謎が解けた。
  おさむちゃんというザ・ぼんちのような名前の学者肌のにいちゃんが言うところによると、神道とはそもそも原始宗教をベースとするもので自然を恐れ敬う心がその意識の正体であるという。雷や台風に対して理論的に心構えをするのではなく、もっと純粋に「こわいから恐れる」「恐れるから称える」「称えるから祈る」という感情的でシンプルな人間の本性をもつものなのである。だから神の前を横切った者の無礼を怒ることは、ごく当然で神道の自然原始宗教的本質をよくあらわしているともいえるのである。
  例えばこれがキリスト教ならば神前の前を横切ることが神との契約の上で理論的にどういけないかを理性的に説いてくれるだろうし、仏教でも仏壇の前で屁をこいたりしたら、そうしたおこないが徳をそこない悪いカルマとしてその人の人生を汚す可能性について怒りとは違う側面から語ってくれるかもしれないと思う。しかし神道はそういう宗教ではない。
  僕たちは戦後教育を受けたから半分アメリカ人みたいなもので、言葉や理論で表せないことは意味がないし、説得力もないと考えがちである。でも、そもそもの日本の文化とは「察する」という、言葉で示されなくても自ら状況を感じ取って人に不快を与えないようにすることを大事とするものなのだ。
  そういう意味からすれば、杭全神社で僕が思った「そんなに怒るんやったら、立入り禁止の札でもはっとけや」と逆切れするのは、物事の深さを感じ取る能力が欠落したことだなあと思った。
  つまり「あれ。ここなんか雰囲気が違う。僕らごときが入ってよいところなのかなあ?」と感じることが大切だったのだ。
  しかし考えてみたら「宗教」と僕らはヒトククリにして言うけど、確かにイロイロである。たとえば仏教(日本仏教でなく)は自分の心をコントロールすることによって真の幸せを獲得する精神哲学だけど、神道は自然への恐れを純粋に感じる心が基盤となっている。

 

     理論じゃない。

 

  そう。世の中、理屈だけでは通らないことがやっぱり多い。
  神道を考えることによって、理論的で哲学的に考えるだけでは、物事を側面的にしか捉えることが出来ないんだなあと感じた平野の夕暮れだった。