日記11. <私的言語伝達の可能性について>

  僕たちは普段日本語という、あらかじめ取り決めのされた共通言語を使って意思を伝達している。まあ、あたりまえやわな。
  しかしここに私的言語というものも存在していて、どうやらそれも意思を伝達するのに一役買っているという事実もあるらしい。どういうことかというと、赤ちゃん言葉の「だわゎあぐぅ」が「うんこ漏れてます」と言う意味で母親はそれを理解できるということで、ここに言う「だわゎあぐぅ」がいわゆる私的言語なのである。同じく、数ヶ月前に死んだ僕の愛猫チビが「うぅにゃあごおぉぉ」とビブラートを効かせて鳴いたとき、僕はそれを「腹減ったメシくれ」と理解した。
  そういう意味では、こだまひびきの「ちっちきち~」も私的言語の類に属するといえるだろうけど、実を言うと、どういう意味だかさっぱりわからん。誰か教えてください。
  つまり私的言語とは約束事なしの個人の中だけの言葉なのだが、それが他人に通用することも可能であることからすると、僕はその理論を外国語の理解に利用することが出来ないかと考えた。
  外国語と言うのは他国人にとってその知識が無ければ、私的言語と同じような未知の言葉なのだけど、ニュアンス雰囲気によってはまったく理解不能というわけでもない。
  例えば、スペイン語の「グランデ」(大きい)と「ペケーニョ」(小さい)をまったくスペイン語の知識が無い人に聞かせてどちらが「大きい」を意味することで、どちらが「小さい」を意味することかと質問すると、なんと70%以上の人がその語感だけで正解を出すと言う。
  そんなわけで、もし非常な感覚の鋭さを身に付けたなら、知らない外国語であろうと「ちっちきち~」であろうと意味を理解し、意思を伝達できるかもしれない人間の無限大の可能性を感じるのだけど。どうだろう。


日記12. <プラネタリウムで考えた>

  プラネタリウムに行った。
  嫁の「プラネタリウムは癒しになんねんで」という言葉に惹かれてだが、それは幼稚園以来のことでもあった。
  今から35年も前、幼稚園の頃のプラネタリウムは、真円ドームの中心に真っ黒い、なにか生き物をホウフツさせるような当時の映写機がまるで新興宗教のご神体のように配置され非日常でカリスマチックな雰囲気だったのを覚えている。そんな過去の映写機は今は役目を終えてホールの横にモニュメントのように飾られ、幼い記憶とオーバーラップして、ある意味それは感無量でもあった。

 

  プラネタリウムの内容は素晴らしく、星座の話だけに留まらず、宇宙の構造やブラックホールの説明までが、すっかり興味深い時間を僕に与えてくれた。
  なんでも私たちの銀河系には太陽ぐらいの恒星が一千億個ほどもあって、さらにそんなタイプの銀河系がまた一千億個もこの宇宙に存在していると言う。

 

  つまり、一千億×一千億個の太陽が存在するのである。

 

  そう考えると地球みたいな星が他にも存在しないわけは無いと思うし、というか宇宙は生命であふれてるんではないのか? なんて風に思ってしまう。
  ぼおおっと夜空を眺めればたくさんの星たちが輝いているけれど、あそこではまったく進化を異にした生命体の文明が僕たちの想像を絶する姿で生き続けているんだなあなんて思うと、小さなトラブルに振り回されてイラついている日頃の自分がアホのように思えて、なんだか心が安らいだ。
  やっぱりプラネタリウムは癒しになる?

 

  そんなわけで久しぶりに宇宙について考えた。
  たとえば、今あなたが自分の部屋でワープロを打っているとする。あなたは座っているので空間座標上は見た目に変わらないはずだ。でも、よく考えると地球は太陽の周りを回りながら自転もしているので、地球にいる現実のあなたはものすごい速さで複雑にこの宇宙空間を移動していることになる。ちなみに太陽系自体も銀河系の周りをものすごいスピードで回っているので、それも考えるとあなたがワープロを打って地球上に座っている時の動きはとてつもなく壮大で複雑なことがよくわかる。

 

  つまり、あなたは座っていても、宇宙的に考えると複雑な軌跡を描き高速で動き回っていると言えるのだ。

 

  まあ仏の教えに則って考えると「世の中は自分の感じていないところで大きく形を変えて、実は自分を振り回している」ということになるのだろうか。
  矮小な自分が謙虚な中で少し賢くなったような気がした。
  まあとにかく、お勧めします。プラネタリウム。


日記13. <シマノスズカでスプリント賞を獲って考えた>

  シマノスズカ国際ロードでスプリント賞をとった。「2週目終了時スプリント賞」と言うやつである。

  2週目のスプーンカーブを過ぎたあたりから、外人選手を中心に激しいアタックがはじまった。スタート前にユンケルとネックスのビタミン剤を飲んでいた僕は、夏バテのわりには好調で、目くるめくアタックにすぐさま対応でき、僕を含めた6人ほどの逃げが勝利を目指す名のもとに形成された。逃げ集団の2週目終了時のスプリントポイントでは、2名の外人選手と僕を含む国内一流選手を交えたプライドをかけた熾烈なスプリントが展開された。そして、微差ながら僕はその栄光を激しい集中力と百戦錬磨の経験により、もぎ取ったのだった。

 

  と書けば、まあかっこいいのかも知れないけれど・・・

 

  実のことを言うと「とにかく前に行かないと、集団の後ろはインターバルがかかってきつい」と考えた僕は、知らず知らずのうちにちょっとした逃げに巻き込まれ、必死のパッチで走るうち、ローテーションで前をひいた場所がたまたまスタートゴールラインで「2週目スプリント賞」なるものを手にしただけのことだった。だから、もちろんスプリントなどしていないのであーる。とほほほほ。
  レース自体はその直後にパンクしてリタイアしてしまい。結果はDNFとなってしまったのだけれど、まあスプリント賞をとったんだから、これはすごいことかもしれないなどと思っていた。
  スプリント賞なんてぎょうぎょうしい名前がついているものだから、てっきり僕はザベルやボーネンの事なんかを想像して、すごい賞を獲ってしまったもんだと勘違いしていた。ところが、当然それには表彰もなくって、賞品を取りにいったら、ボトルと靴下とタオルだけという、なんだか栄光とは少しニュアンスのかけ離れた、参加賞的なグッズが僕の財産にくわえられただけのことだった。
  なんじゃあ。しょぼい賞品やなあ。あんだけしんどい目して、たったのこれかい。
  なるほど、それで逃げ集団の強豪たちが、すんなり僕に前を譲ってくれた理由もよくわかる。

 

  ちょっとシマノさん。もっとエエ賞品だしてえな。そやないとレースも盛り上がれへんで!,,,,,,

 

  すいません。物もらっといて、生意気言って。
  それはそれとして、タナボタながら2週目周回トップを獲った僕に与えられたご褒美と言うのは実はそんなこととはまったく次元の違う事象価値だったことをここに述べたい。
  レースをおりてプラプラしていると、名古屋のカミハギさんやストラーダの井上さんやチームサニーサイドのぶんちゃんまでが「いやあ。2週目ラップ獲ってすごかったやん」と,
  ねぎらいの言葉をかけてくれたり、ジャーナリストの小林徹夫さんが「上阪君がスプリント賞獲ったって放送流れたとき、報道陣からどよめきがあがったよ」なんて言ってくれて、実はめちゃくちゃうれしかった。
  これである。今回僕が言いたいのは実はこのことなのである。

 

  人は行動の原動力を金や物によって突き動かされるものではなく。形のない崇高な精神によってのみ支配されるべきものなのだと。

 

  とは言え、お褒めの言葉だけじゃお腹がふくれないのは分かっている。でも、現実論だけではない理想論こそ文化を成熟させるのを知っているからこそ、僕らアマチュア選手は走りつづけるのである。
  下世話で崇高な精神が火花を散らすシマノスズカのイベントは今年も熱く暑く素敵でした。


日記14. <バーで説く、自転車を走らす楽しさとは>

  会社を辞めてバーを始めることにした。
  理由はイロイロある。以前からバーをプロデュースしたかったこと。書きかけの小説を完成させたかったこと。でも、一番の理由は、バーの形を借りて自転車の楽しさ、特に自転車で走る楽しさを酔っ払った勢いで伝道できればいいなあと思ったことだ。

 

  健康志向。地球環境保護。スローライフ。
  今、見つめなおされている非物質的な現代思考に自転車はぴったりなはずなのに、なぜか日本でサイクルスポーツはまだまだマイナーで一般に定着しきれないでいる。僕はその原因を考えた。
  日本では、モノとしての自転車を愛でる文化はあっても、ソフトとして自転車を走らせる文化は希薄といわざるをえないのじゃないのかと。

 

  もっと遊びを提供するところが増えなければ・・・

 

  確かに考えてみれば、自転車しか能のない僕がそれを仕事にしようとしたとき、すぐに就職可能だったのは「モノを販売する仕事」だった。世の中には「物」があふれているからだ。
  もし、あなたがロードレーサーを買おうとすると、巷には数百数千のモデル、ヴァージョン、カラーリングがあなたの頭を悩ませることだろう。どれにしようか。カーボンバックでアルテグラがついて23万円? フルカーボンで24万円? だけどブレーキが台湾製でしょぼいしなあ。どうしよう。どうしよう。どれだ。どれだ。どれだ。
  悩んでるあいだに走りにいく時間がなくなるよ。

 

  ヨーロッパやアメリカでは、サイクリングというスポーツは一般に定着していて誰もが気軽に走りを楽しんでいる。それは物に固執せず、走るという行為を楽しむことを重要視しているからだ。このあいだ行ったドイツでも、休日や夕刻にはめちゃめちゃたくさんの人がレーパンにTシャツ姿でライディングを楽しんでいた。乗っている自転車を見るとほとんどの人が5万円までの廉価なフラットバーにまたがっている。
  日本じゃ少し高めで、いい自転車乗ってないと走りに行っても肩身が狭いような気がするもんね。

 

  それで僕は考えた。コルナゴをこのままたくさん売り続けて、サイクルスポーツ人口は増えるのか? サイクルスポーツの楽しさを広めることはできるのか? と。
  僕が導き出した答え。それは、コルナゴをこのまま売り続けても、ピナレロの売上を落とすだけのことでしかないと。
  つまり、今の自転車販売業界は小さな市場の中の毟り合いでしかないのだ。
  そんなことより僕が今しなければいけない、そしてやりたいのは、少しでも自転車に興味を傾けてくれた人に走る楽しさを伝道することだ。

  もちろん、小さなバーだから小さな力でしかないと思う。でも、自転車屋さんだけにソフトの提供や走りの楽しさを伝道してもらうにも限界があると思うし、むしろ自転車販売業界の外に自転車遊びの楽しさを発信するところがあってもええじゃないかと思った。

  そんなわけでバーを始めます。店の名前は「タクリーノ」。イタリア語で「たくちゃん」です。よろしく。


日記15. <ペンキ塗りとフグの美味しさの共通点とは>

  バーの内装に自分で手を加えなければならないところがあり、ペンキ塗りをした。
  それがなぜか結構楽しかった。ペンキがついてはいけないところの境目など塗る時には妙な緊張感が下腹部をうずかせるようだった。いっちょらの綿パンを汚してしまっても、「ぜんぜん悲しくないもんねえ。にゃははははは」と妙にポジティブな自分がいた。ムラなくノッペリとした表面を仕上げることができたときには感無量な喜びが内からこみ上げて、それは大変なハイ状態だった。

 

  「俺、やっぱりペンキ屋になろかな」

 

  でも、よくよく考えてみるとその楽しさっていうのは、ちょっとヤバイ系なんじゃないかなとも思った。
  つまり、ペンキ塗りの目的達成の充実感が、ペンキ自体の揮発性物質を吸ったハイ状態に助長されているんじゃないだろうかと。簡単に言うと、ペンキ塗りとは、シンナー遊びつきのアーティスティック系目的達成型行為なんではないだろうかということである。
  考えてみれば、世の中には他にも同類の行為はあって、女性のマニュキア塗りなどがそれにあたる。
  うちの嫁でもたまにお出かけする時なんぞに、僕を待ちくたびれさせながら、たっぷりと時間をかけて、マニュキアを塗るのだけれど、その表情たるや実に危ない。マニュキアの揮発物質をたっぷりと吸引しながら、とろんとした表情からは恍惚感を漂わせ、僕は身内がジャンクな世界へと落ちていく様に身を震わせるのである。
  そういう風に薬物が知らず知らずのうちに行為自体の楽しさを深める重要な役目を担っていることは他にも結構ある。
  ひとつだけ面白い例をあげるとそれは「フグはなぜ美味しいか」という問題に突き当たる。
  聞いた話だけれど、そもそも昔はフグの毒抜きというのは今のように完全に行われるものではなく、少しだけ毒が残った状態を「美味しい」と言ったらしい。つまり、死には至らないほどのちょっとの毒が体をびりびりと痺れさせ、非日常へといざなうことがフグの味自体の良さを助長させ、そこに「フグは美味い」といった表現を生み出したらしいのだ。
  というわけで、ペンキ塗りとフグを食べることの共通性に気づいたことによって、世の中の深遠な事象のつながりを再確認した師走の空の下でした。
  なんのこっちゃ。