日記26.  <タバコの正しい吸い方を考える

  僕はタバコを吸う。一息ついたときにバーボンのロックをなめながらブワーとふかす紫の煙は実に美味い。というか気持ちがいい。
  でもそれは一日に2~3本ぐらいのことである。なんでかというと、タバコって1本目は気持ちがエエのだけど、2本目、3本目となるにしたがってハイな感じがなくなり、4本目に突入すると「気持ちも良くないのに、俺なんでこんなの吸ってんねんやろ?」と疑問を抱いてしまうくらいマズくなるからである。
  僕は、タバコも酒もマリファナも覚せい剤もすべてドラッグだと考えている。だから摂取することによって「くらくらふわふわ」とした陶酔感がなければやる意味がないと思っている。そんなわけで、タバコは一日に2~3本になってしまうのだ。
  でも、世の中にはタバコを一日1~2箱も吸う人はざらにいる。僕はそんなある人に20本目のタバコは美味いかどうか聞いてみた。すると「美味くはないけど癖である」なんて言う。癖って? なんか理解に苦しむ。
  そして一日に20本も吸う人をよく見ていると、ほとんどのタバコをもったいなくも先っちょだけ吸って揉み消し、再び新しいやつに火をつけている。だからその人の灰皿には、先だけ焦げた長いタバコがずらりと並んでいるのである。経済的にももったいないし、ドラッグとしての意味もまったくなさそうである。
  僕が思うのは、タバコをドラッグとして利用せずに火のついた物を持っているということで満足している人は、タバコを自分のイメージ作りのための小道具に使っているのではないかということである。
  タバコのイメージには「大人」「権威」「不良っぽい」「命知らず」「威圧感」などがあって、吸わなくても火のついたタバコを持っているだけで「何やら少し偉いような雰囲気」がかもし出されると思うのだ。実際にはほとんど吸わなくて火のついたタバコを持っているだけの人は無意識のうちにそういった虚栄を演出しようとしているのだと。三流やくざ映画で登場人物が常にタバコを吸っていることとも関係があるのかなあ。
  もうひとつ、タバコを気持ちよくないのに吸う人の目的として「間が持つ」というのがある。バーで酒を飲んでいてもタバコを吸っていれば誰かと話をしなくても穏やかに時間が過ごせると言う人もいる。それも先にあげた「偉いような雰囲気」と無関係ではないと思うのだけど。どうだろう。
  でも、僕の個人的な意見としてはあくまで「タバコはドラッグなのだから、クラクラフワフワを感じて楽しんでほしい」と思うのだ。
  まあ、そんなタバコ本来のドラッグとしての目的を逸脱した使い方の一番の原因は、タバコが20本入りの箱で売っているという事実だと思う。いっぱい持ってるからついつい吸っちゃうのだ。
  東南アジアに行ってスタンドで「タバコちょうだい」と言うと「箱かそれとも一本か?」という返事が返ってくる。あちらではタバコは一本から買えるのだ。そんなわけで日本でもどうかタバコを一本から販売してくれないだろうか。そうすれば、タバコ本来のドラッグとしての使用がヒノメを見るし、僕ももらいタバコをしなくてすむしね。ああ情けない。


日記27. <「おまえかてやったやないか!」>

  人の悪いところを指摘するのは勇気がいる。
  言い方もあるのだろうけど、こちらは悪いところを正せばその人の為になると思うから言うわけである。しかし、それを非難されたと勘違いする人が開き直って逆に食いかかってくることが怖い。
  良くあるパターンとして、例えば「おまえ人前で携帯電話するときにはもう少し小さい声で喋れや」と注意したとする。すると言われた方は「お前かてこの前でかい声で電話してたやないか」と僕が失敗したことを対抗意見で言うことにより自分がでかい声を出したことを正当化しようとするのである。何かおかしくないだろうか。
  「他の人に迷惑がかからないように携帯電話は少し小さい声で喋ろう」というのがこの指摘のポイントである。これが間違っていることであればどうしょうもないけど、それなら「携帯電話は大きな声で話しても迷惑にならない。なぜなら~~」とその理由を説明して反論すれば良い。だけどこの場合のポイント「携帯電話は小さい声で喋ろう」はどうやら常識的に正しそうで、「お前かてこの前デカイ声で電話してたやないか」というのは、「悪いこととはわかっているけどお前も罪を犯しているのだからそんなこと言う権利はない」と言うことであり、一方で「お前が悪いことしているのだから俺も悪いことができる」という風にも聞こえる。なんかむちゃくちゃ言ってるような気がするのである。
  それは世の中のために良くないことではないか。そんな意見を肯定するならば、「悪いこともみんなですれば怖くない」みたいな、おかしなことにならないだろう。
  自分が悪いことをしたならまずそれを認め「それはすんません。気をつけます。しかしこの場を借りて言うならばあんたもこの前デカイ声で携帯電話してましたで。そやからそれも気をつけておくなはれな」というべきではないのか。
  「おまえかてやってたやないか!」という感情をぶちまける言葉は社会の良識を無残にも破壊する悪行なのではないかとさえ思う。といいながら僕自身も人に自分のミスを指摘されるとムキになってしまうことがあるのでなかなか生きていくのは難しいもんである。
  自分で書いていながら気をつけなければと思いました。
  ちなみに僕の好きなタイでは「お前のわがままを認めるから俺のわがままも認めろ」的な思考パターンが普通としてあるそうだ。


日記28. <世界の海を渡ったネコ>

  このあいだ司馬遼太郎の「オランダ紀行」を読んでいたら、400年以上も前に世界を席巻していたオランダ船団の各船には必ずネコも一緒に乗船していたという。これはオランダ船に限ったことではなく、船の中の食糧を食い荒らすネズミ退治のためである。だからネコは船の守り神みたいなもんなのである。
  考えてみれば大航海時代には、オランダやイギリス、スペインやポルトガルから数多くの船が世界を巡ったわけであるから、それに随行してネコも全世界を冒険したといえるのではないのか。ネコは世界の海を渡っていたのだ。
  むかしの日本でも、きっと助平なオランダ人などが大和ナデシコを手込めにして遺伝子をばら撒いたりしているから僕たちの身体の中にはほんの少しだろうけど異国の血が絶対に混じっているはずである。(ちなみに関係ないけどオランダ人はヨーロッパの中で一番黒人のDNAが多いそうである)それならネコだってきっとオランダ船に乗ってきたオランダネコが船から下りて日本のネコと契りを結んだであろうことは想像に難くない。そう考えるとネコというのは世界中の地上四足生物の中で一番激しい混血が起こり、その結果の優性遺伝によりある意味かなりの進化を遂げた生物といえるのではないだろうか。
  そういう目でネコを見ていると確かになんだかスゴク賢いようにも思う。すごしやすい温度や湿度のところを察知して気持ちよく寝そべるところなどタダモノではないし、エサが欲しい時にはニャンニャン甘え声なのに食べ終えるといきなりクールに変わるところがこれまた文明的である。大体からして「イヌは人につく。ネコは家につく」という言葉があるとおり、ネコは人や心よりも家という物質だけを信じているのかもしれない。そうした文明的で物質的な人こそこれからの時代を上手く歩んでいけるのかなあ。
  でも、ネコは一方でとても気分屋でなまけものなので、そこらあたりはしっかりしてほしいもんである。
  考えれば、世界の遺伝子を内包したネコのつかみどころがない部分が、船乗りたちの長い航海での気持ちをさらに和らげたことも事実じゃないのかとも思う。なんだかネコを見てたら落ち着くような気がするからね。それが船の守り神たる由縁のもう一つかも。


日記29. <この世は地獄か?>

  先日タクリーノに興味深い話をするお客さんが来た。その方によると「人間の体というのはマジンガーZのように単なる借り物である」とおっしゃり、さらには「この世は地獄である。世界は恐怖と苦悩に満ちている」とも述べられた。
  人間の体が借り物であるというのは面白い。哲学的に述べるなら、「現実とは、虚構を事実と思い込んでいるだけのものである」みたいなことだろうか。
  でも「この世は地獄である」という考えに関して僕は少し反論した。
  「苦しいこともあるけど、楽しい事だってたくさんこの世の中にはある。僕のある友人はこの世は極楽だといってる」
  するとそのお客さんはこう述べられた。
  「でも戦争や殺戮はなくならない。それは人間の本性がそういったものだからだ。もしあなたの肉親があなたの目の前で惨殺されたらどうしますか。あなたはきっとその犯人を殺してやりたいと思うはずです。それは地獄です。人間の本性には地獄が潜んでるのです。だからこの世は地獄なのです」
  「そんな風にこの世は地獄だと思うことによって、戦争や殺戮がなくならないんじゃないの。数千年前には今みたいに道徳や倫理が発達してなかったはずだけど、少しづつ良くなっているはずだ。地獄だと決めつけないで、これから少しづつ良い世の中になるようにみんなが努力していけばいいんじゃない」と僕。
  「そう言っても、実際に犯罪や殺しはなくならない。現実を見てごらんよ。悲しいことばかりじゃないか。僕は自分の息子が殺されたら、そいつが刑務所から出てきたところを殺してやるよ。この世は地獄だ」
  なんだか少し悲しくなった。もし肉親を殺した奴を仇討ちで殺せば、殺された奴の肉親が自分を殺しに来るだろう。するとまた仇討ちがおこって殺しがおきる。そしたらまた仕返しがおこり、殺し合いは永遠に続く。
  正直言って、地獄とはその人の心の中にあるのではないかと思った。
  「この世は地獄か?」という問いの答えになるかどうか。僕はこんな話をしたのだけど、憶えておられるかな?

 

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  昔々ある所に悟りと達観を得て多くの知識を積んだお坊さんがいた。そのお坊さんの知らないことは無いという噂だった。一方で血の気の濃い若い侍がいた。その侍は以前から疑問に思っていることがあり、そのお坊さんのところへ出向いた。そして頭ごなしにこう言った。
  「おい! 坊主! きさまこの世のことを何でも知っているそうだな。俺に教えろ! 地獄とは何だ?! 極楽とは何だ?!」
  お坊さんはチラリと若い侍を見るとこう言った。「礼儀も知らんのか。アホが。出直してこい」
  そう言われて血の気の多い若武者は激怒した。そして刀を抜くと振り上げて坊主に切りかかろうとした。「何を抜かすかこの坊主! 切り殺してくれるわ!」

 

  お坊さんは静かにこう言った。「それでは教えてやろう。そういうのを地獄というのだ」

 

  若い侍はその言葉に打たれ、自らが今地獄を作り出していたことを悟り、反省した。そして刀を置いて謝罪した。
  「よくわかりました。失礼をつかまつりまして申し訳ございませんでした。今の言葉によって自分が救われました。自らを地獄に落とすところでした。感謝いたします」

 

  最後にお坊さんはこう言った。「今それを極楽というのだよ」

 

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  地獄とか極楽はこの世のことではなくって、人間の心にあるものなのかなあ。


日記30. <大衆食堂に見る雅の小宇宙>

  最近、仕事の前にお決まりなのは、チェーン店型大衆食堂で昼飯を食べることだ。(昼飯とは言っても夕方6時ぐらいなんですが)
  広くて清潔な店内に入るとお盆を持って、幾種類にも並べられているオカズを自分で選び、最後にレジで清算を済ますというあの方式である。
  清算を済ませてからも、自分でお茶を汲んだり、煮物の皿を電子レンジでチンしたり、小鉢物のサランラップをはがしたりと、まあ食べる前に大変忙しくて通い始めた頃は少し落ち着かなくて消化の流れが悪いような気がした。でも慣れてくると、そんなことはあまり気にならなくて、むしろ、小さな定食屋に比べると値段的に安くて美味しさも安定しているなあとか、自分でオカズをチョイスできるから体調と相談しながら効率のよい栄養を摂取できるなあとか、なかなかこれが良いのである。それは最近の僕にとって御用達なのである。
  特にオカズのチョイスに関しては、自転車に乗る機会が増えていることや、中年ブトリを考慮して、それなりにシビアに栄養バランスを考えて慎重にオカズを選択し、それがまた何やら面白いのである。
  基本パターンとしては、「魚の煮物」「ホーレン草のおひたし」「納豆」「中ご飯」「味噌汁」という純日本風なのだけど、いつも同じ物を食べていては偏りができるだろうから、「魚→鶏肉」「ホーレン草→キュウリの酢の物」「納豆→冷奴」と変えてみたりもする。しかしそれでも同じパターンにはまり込んでしまう傾向があるので、時には「カツオのたたき」「フキとタケノコと高野豆腐の炊きつけ」「おでんの大根」「豆ご飯」「トン汁」なんて、イロイロ視点を変えながらオカズ棚の前でウムムムと考察を繰り返し、「オカズ選び道」を極めようとしている毎日である。
  そんなわけで自分ではオカズ選びに関しては岸里玉出地区でも5本の指に入るのではないかと自負している。
  事実、その食堂に来る他のお客のお盆の上をのぞいて見ると、これがまた、ほとんど何も考えてないのじゃないかと思えるような人がメチャ多いので唖然としてしまう。先日も隣に座った髪の毛がバサバサのニーチャンの食事をのぞいて見ると「コロッケ」「トンカツ」「かけうどん」「大ご飯」とまあヒドイ内容である。

 

  野菜がぜんぜん少ないやんか! トンカツとコロッケ。揚げもんばっかりやんか! うどんと大ご飯。炭水化物取りすぎちゃうんか!

 

  もし僕が横山ヤスシみたいな性格なら、絶対注意したんねんけどなあ。「コラわれ!もっと野菜もとらんかい! うどんはやめて味噌汁にしろ! スポーツマンでもないねんやったらご飯は中にしとかんかい! 健康を考えろ! 空気を読め!」
  そんなわけで、メチャやらしいと思うのだけど僕はこの食堂では実は人のお盆の上をちくいちチェックしている。そうした中で栄養バランスや味の調和を考えた選択内容の完璧な人は非常に少なく、みんな思いつきで食べたいものを選んでいるだけのようなのだ。
  「から揚げ」「トンカツ」「玉子焼き」「大ご飯」なんてパターンはざらである。
  そうして、いつしか僕はその食堂では「オカズ選びマスター」としての優越感さえ抱くようになっていた。

 

  健康に良いオカズの組み合わせなら俺に聞け!

 

  ところがである。ここ数日よく来られる初老の労働者風の方のお盆内容を見て、大きな感銘を受けた。
  その方のおかず選択内容は基本的には僕と同じ純和風をベースにしたものなのだけど、栄養と味わいの調和のほか、見た目の色彩にも考慮して毎日の選択をされているようなのだ!

 

  その人のお盆の上は常に彩りが鮮やかであり、和食のワビサビをも感じさせるような美しいミヤビ芸術の小宇宙と化しているのだ!

 

  その日その方のお盆の上には、マグロ刺身の赤、春菜のオヒタシの緑、カボチャの煮物の黄色、味噌汁の茶色、ご飯の白が煌くような色彩のモザイクを作り出し僕の目を眩ませた。
  僕のお盆の上のオカズ選択内容は栄養と味のバランスしか考えていないため、見た目は芸術にほど遠く、色使いに乏しくみすぼらしいのだ。そう。僕は見た目の美しさによって食材と調理のアドバンテージを際立たせるという日本料理の真髄なんてぜんぜん考えてなかったのだ。なんちゅうこっちゃ。僕は大きな敗北感にさいなまれた。よよよよよ。
  労働者風の垢抜けない格好でありながら上品に箸を口に運ぶその方のしなやかなしぐさに見とれながら、世の中上には上がいるものだなあと、自らの奢りを恥じた夕暮れだった。