マラリアで出会った売春婦たち〈2〉

  僕は2年半の海外放浪旅行の間、現在の日本ではめったにお目にかかれないような超レア級とも言える病気に遭遇し、またその恐怖にさらされた経験がある。
  そのひとつはマラリアと言う病気で、名前を聞くと皆さんなんだか馴染みがある病気のように思われるかもしれない。でもじっさい現在の日本でマラリア感染経験者と言えば、戦時中に南洋で戦った事のあるおじいちゃんぐらいという希少なもので、体験してみるとその実態は謎に包まれながらも、果敢に非日常的で幻想と恐怖を超越したヘビーな疾病だった。
  僕がマラリアに感染したのは、おそらくインドネシアはスマトラ周辺の島々であろうと思われるけれど、確証は無い。なぜなら、発病から逆算して感染したと思われる期間、僕は遊牧民族のようなハイスピードでインドネシアのスマトラからシンガポール、マレーシア、タイとマレー半島を北上していたからだ。そんなわけで、一体どこいら辺でマラリア原虫を持つ蚊にちゅうちゅうと病魔を注入されたのかさっぱりわからないのだ。
  ちなみに、なぜ僕が、その時それほど大急ぎで旅をしていたかと言うと、実は父方のおじいちゃんの法事に出席するための一時日本帰国という生活態度に似合わない律儀な理由の為であるけれど、まあそんなことどうでもよろしい。
  発病の異常を最初に感じたのは、いよいよ日本に帰国する前夜というバンコク市内のホテルでのことだった。シャワーを浴びたあと、いきなり寒気と震えが襲ってきた。でも、その時は風邪でもひいたかなぐらいにしか思わなかった。それで何とはなしにバーをはしごして、いつものようにベロベロになって寝た。けれど翌日、起きると妙なけだるさの中、ホテルやタクシー、そして空港までもの全てのエアコンの冷気が南極のように感じられて(って南極行ったことないけど)悪寒を通り越した戦慄のため体がバラバラになりそうな感じがした。
  関西空港までの飛行機の中での約5時間は、激しい震えの中での酩酊状態で、むしろ楽しいことが起こるかもしれんという予感をはらんだワクワク感すら襲ってきた。で、まだ明けやらぬ関空に着いた僕は、「やっぱりコリャちょっとおかしいで」と原虫の病魔に冒された脳みそを遅まきながら回転させた末、空港検疫所に異常を申し出た。もちろん、さっそく熱を測られた。
  「うわっ。40℃もある!」と検疫職員たちが仰け反って顔を見合わせた。
  「あんたねえ。マラリアの疑いがあるから、すぐ病院行ったほうがいいよ」
  そうした経緯を経て、帰国後2時間とたたず、僕は兄貴の車で病院の人となったのであった。
  都島区にある市民医療センターでは、診察の医者が僕の熱を測って空港の検疫職員と同じように
  「うわっ。えらい熱や!」と仰け反ったのけれど、その記憶を最後に、僕の意識は白い靄の中へと消えていったのだった。


  汚いバックパックごと入院の身となった僕はその後40度以上の熱を4日間だしつづけ、いわゆる生死の狭間をさまよっていたらしい。人間40度の熱を4日間も出しつづけると、熱で脳の芯がイカレポンチになるらしく、僕はそこでさまざまな幻覚を見た。今から思えばどのあたりまでが現実で、どこまでがイリュージョンなのかよくわからないのだけれど、とにかく一番印象に残っているのは「4人の中国人売春婦」の幻覚だった。


  熱でうなされた真夜中、ふと目を覚ますと4人の人影が僕のベッドを取り囲んでいる。僕は、見知らぬ人が真夜中の僕の病室にいるという不審極まりない状況を脳みそイカレポンチ状態ながらもどうにか把握して、枕もとの引き出し棚にしまってあった財布をパンツの中に押し込んだ。少し落ち着きを取り戻して周りを見渡すと、それはどうやら女の人で、しかも彼女らは中国人の売春婦らしかった。どうして中国人でしかも売春婦なのかというと、実はよくわからない。かもし出す雰囲気と直感がそう告げていた。とにかく中国人売春婦だったのだ。彼女らは、無表情だけどグニャグニャ揺れているという変な顔で僕の方を見つめ、「よろしければ一発どうでっか?」と言っているようだった。財布の中には幾ばくかのお金はあったけれど、中国人といえども4人分の買春するまでの額は無いし、第一マラリアの危篤状態の中でそんなことする元気などあるわけも無い。ましてやここは病院なのだ。そんなわけで、ぼくは「帰ってちょうだい」と言った。それでも彼女らはますますグニャグニャと顔中体中をゆがませてそこにたたずんでいる。でも、呪術的な怪しさの中、彼女らの性的な何かが僕を突き動かしたことも事実だった。僕は、一番近くの手前右にいる女の人の顔をはっきり確認してやろうというモチベーションに駆られ、ベッドから上体を起こすと暗闇と近眼ではっきりとしない視野を探った。少し顔を近づけるとその人の顔がなんとなく見え出した。テレサ・テンを脂っこくしたような美人だった。おおっこれは。と思い、僕はズンズンとその人に顔を近づけていった。ところがある距離まで顔を近づけると、その人は恥ずかしがってベッドの下に身を隠してしまった。なんや顔が見えへんようになったやんか。と元の位置まで体を戻すと、彼女は再びベッド下から顔を現わす。それで僕は再び彼女の顔を見ようと顔を近づける。すると、やっぱり彼女は恥ずかしがって、ベッドの下に隠れる。それで僕が離れるとまた顔を現すという繰り返し。何回かイタチごっこを繰り返すと、アホらしさと気持ち悪さがこみ上げてきた。だいたい夜中に人の病室に勝手に入ってきて、ベッドの下にもぐりこんで人をからかったりして失礼やないか。そう思った僕は、(もっとはよそう思えゆうねん)その状況の中では伝家の宝刀たるナースコールのスイッチをビビーと押した。
  数十秒後「うえさかさーん。大丈夫ですか」と現実感のある看護婦さんの声がした。そのとたん、四人の中国人売春婦はあろうことか霧となって流れるように窓の外へ消えたのだった。
  次の瞬間、白衣の天使がバタンとドアを開けて部屋の明かりをつけてくれた時、僕はその光景に驚愕していた。


  「今。ちゅっ!中国人の売春婦がぁ~っ・・・?!」と叫んでしまった。
  「大丈夫ですよ。誰もいませんよぉ」優しげだけれど明らかにあきれたような看護婦さん。


  「煙になって・・・窓の外に消えたぁ~!」
  「怖い夢だったのぉ。お薬飲もうか。よく眠れるよ」
  気がつくと僕は汗をびっしょりかいていて、病室の外には僕の大声を聞きつけた別の看護婦さんが駆けつける気配が。「お薬持ってくるからね」と部屋を出た看護婦さんと別の看護婦さんが、ぼそぼそと何やら廊下で話しているのが聞こえた。
  「注射で眠らそうか?」
  だけど、そんな会話を聞き終わらないうちに、もう僕は次の朦朧の泥の中に沈んでいった。


  次の朝目覚めると、パンツの中に財布があった。そして僕がバックパックの施錠に使っていた中国製の小さな南京錠が、どうしたわけか外れてベッド脇に落ちていた。
  窓に目をやると初夏の日差しが輝いていて、明るさに酔ったような僕は、空を見ながら脂っこいテレサ・テンの行方を案じた。後で確認すると病室の窓はハメ殺しで、煙も霧も這い出す隙間はない。
  テレサ・テンをハメ殺し・・・。
  でも、その日から少し熱が下がったことだけは現実だった。